体験しないと分からない。 | 漢方堂だより

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戦後70年が過ぎ戦争体験者も少なくなってきたが、「戦争の記憶を風化させてはいけない」と主張する人は多い。悲惨な戦争を繰り返さないためにも、そう考えるのは正論だが、しょせん無理な話である。戦争体験のない人の割合が増えれば、戦争の記憶が風化してゆくのは避けられない。

戦争体験者が語り部となって、学生や若者に戦争の体験を語っても、実感がわかずピンとこないし、うまく伝わらないだろう。もちろん、体験しなくても頭では理解できるし、誰もが戦争は絶対すべきではないと思うだろう。だが、体験のない理解は、しばらく時間がたてばだんだん薄れていくものだ。

一時、あれだけ盛り上がった原発反対運動も安保反対運動も、すっかり下火になってまった。

体験したことのない人に何かを言葉で伝えるのは難しい。たとえばドリアンやマンゴスチンなどの、日本ではあまりなじみのない果物の味を、「甘くてマンゴーのようだ」とか「キウイのような酸味がある」と言っても、うまく伝わらない。だが、どんなに言葉を尽くすより、一口食べれてみれば一瞬で理解できる。



   

                         

                                       

いくらネットで情報を集めても、体験しないと分からないことは多い。原発反対運動や平和運動でも、それを阻止する効果がないのは、自分で体験している人が少ないのと、自分の本音に目を向けない人が多いのが原因の一つだと思う。

なかには原発廃止や戦争に反対する自分が好きな人もいる。そうした人たちは、いざ自分に不利益が及ぶようになれば、いつのまにかいなくなってしまう。

原発に反対する人の多くも、同時に豊かな生活も捨てたくないのが本音だろう。化石燃料による温暖化が問題になっている現在、必要な電力を確保するには、火力発電を増やせないなら原発を再稼動するしかない。

原発には反対だが火力発電はいいというのは、どこか自己矛盾しているし問題の解決にならない。豊かな生活を維持してゆくためには、新たなエネルギーを開発するか、経済発展を捨てても電力の消費を抑える覚悟が必要だ。

今のところ、風力やソーラーシステムなどの新たなエネルギーは、まだ採算の取れる状態になっていない。


                          
  

いじめや難民問題にしても外から見ただけでは、分かったとはいえない。自分で体験しなければ彼らの苦しさは分からない。わたしもアフガニスタンの難民と旅したことがあるが、自分が同じ立場に置かれるとまったく見方が変わるものである。

わたしの場合は、難民と一緒に行動して同情するどころか、いざとなったら自分だけ助かればいいと思った。


   




実際、同級生が教室でいじめられていたり、電車で誰かがヤクザにからまれていたら、助けられるだろうか。自分は助けられないが、先生や警察に連絡するという人もいるだろうが、実際は先生や警察に連絡できない状態のことの方が多いのだ。

いじめられている人や脅されている人を助けるべきだと言っているわけではない。ただ、きれい事を言っても、人間、いざとなったら実際の行動は、頭で考えたり、口でいっている事とは違うことを知っておくべきだと思う。

なぜなら、そうした欺瞞が原発の廃止やいじめの撲滅を阻んでいるからだ。

人間には誰にも防衛本能や生存欲があり、自分の生活や生命が危機にさらされた時、自己防衛のため理性をなくした行動を取ることがある。また、多数の人間を助けるためには、少数の犠牲は仕方がないと思ってしまう。

終戦後の満州や北朝鮮では、多くの日本人難民が出た。帰国のため南に向かったが、途中でロシア兵から女性を差し出すように命令されると、有無を言わせず女性を選んで差し出したという。平時ならあり得ないことだか、ロシア兵の機嫌を損ねたら命の保証がなかったからだ。

たが一方で、現実から目をそらし深く考えないことが社会に適応する方法かもしれないとも思う。日本の社会は不公平で不条理である。自分の本音を隠し、自分を正しく親切な人間と思いこむことで、何とか社会に適応できるともいえる。

自分に嘘もつかず、本当に人のために悲しみ同情するやさしい人は、効率と競争原理のこの厳しい世界では生きて行けないのかもしれない。

                         


日本の社会は平等でもないし、やればやっただけ報われるわけでもない。競争主義や効率主義を基本とした資本主義社会では、格差ができるのは当然だ。安保法案を守れば平和が保てるというのも嘘だ。専守防衛なら、実際に敵国が攻めてきたら不利になるだけだ。

そうした現実を無視して戦争反対を叫んだり、いじめをなくせと言ってみても仕方がない。具体的に何をすべきかを考えることだ。

勇気や覚悟を決めていじめや原発の廃止に取り組む人が増えれば、社会の流れは変わってゆくだろう。だが、自分の生活で精いっぱいでそれどころではないという人が多く、今の所のその可能性は極めて低い。

わたしはどうかといえば、積極的に原発反対運動に関わっているわけでもなく、日米同盟に反対しているわけでもない。いわば傍観者である。勇気を出して行動を起こさない以上、日本がこれからどうなっても、連帯責任でそれを受け入れるしかないと思っている。

何もしなくても、日本は変わらざるを得なくなるだろう。それが大地震のような天災か、世界恐慌による経済的な破綻なのか、異常気象による食糧危機なのか分からないが、近い将来日本は必ず変わることになると思う。そう思えないのは、長く続いた平和のため平和ボケになっているからだ。

中高年の多くは、自分の生きている間だけ平和で豊かな生活が続けばいいので、今更、生活水準を下げてまで社会を変えるつもりはない。だが、赤字国債の乱発は、いずれそのつけが今の若者世代に回ってくる。

そうならないように明治維新を成し遂げた若者のように、志のある若い人たちに頑張ってもらうしかない。