つれづれ日記  アフガン難民(1) | 漢方堂だより

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ひとりで海外を旅行していると、ときたま怖い思いをしたり自分が日本人だと気づかされるようなことがある。私の場合は、命にかかわるような危険な目にあったことはないが、いろんな場面で否応なしに自分の内面と向き合わざるを得ないことが何度もあった。


そのうちのいくつかを思い出しながら書いてみたい。


もうずいぶん昔のことだが、イギリスのロンドンからインドまで陸路で旅行したことがある。もちろん飛行機で一気にインドまで飛ぶことも考えたが、陸路でバスや列車を乗り継いで行った方が面白いと思ったのである。



ヨーロッパを南下してイランまでは観光しながら楽しく行けたのだが、イランに着くとそんな浮かれた観光気分は一変してしまった。国境の税関事務所は完全に破壊されており、バスで一緒だった日本人以外の外国人は入国を拒否された。私は入国できたものの、事情も分からないまま、たったひとり外国人として取り残されてしまった。



後で分かったことだが、イランではまだ内戦状態になった革命の余波があちこちに残っており、国中に殺伐とした雰囲気が漂っていた。その上、隣国のイラクとも戦争状態になっており、しょっちゅうイラクのミサイルが飛んで来るらしかった。

(当時、日本の商社が石油プラントの建設を請け負っていたので、日本人は入国できた)


身の危険を感じて一刻も早くパキスタンとの国境まで行かなければと思ったが、英語が通じないので、話すことも文字を読むことも出来なかった。そのため自分がとんな状況に置かれているか分からず、不安がつのるばかりだった。



どうしたものか困っている時に、徴兵のためにインドの大学から一時帰国している英語の話せるイラン人学生と知り合った。彼は兵役があけてインドの大学に戻るので一緒にインドまで行かないかと誘ってくれた。

大学生といっても30才くらいで、プロレスラーのような立派な体をしていた。軍隊では砲兵隊に所属していたと言っていた。



さっそくふたりでインドに向かってインドに向けて出発したのだが、何日かするとどうも彼は同性愛者らしいことがわかってきた。マッサージをしてやると言って体に触ってきたりしてたり、なんとなくそんな気がしていた。私にはそういう趣味はないのでヤバイなあと思っていたのだか、ある晩予感通りまずい雰囲気になってしまった。



身の危険を感じたのでとっさに果物ナイフを出して「俺はいつも護身用のナイフを持ってるんだ」と威嚇してみた。すると彼もブーツから包丁のような大型ナイフを出して、も護身用のナイフを持っているんだぜ」と対抗するように答えた。


緊迫した雰囲気だったが、不思議と恐怖心は感じなかった


お互いにナイフを見せあいながら険悪な雰囲気になったが、その場は何とか収まりベットに戻って横になったのだが、お互いに一睡も出来なかった。彼の方も眠るとクレイジーな日本人にナイフ刺されるかもしれないと思って眠れなかったようだ。



私は何かされればナイフで刺すつもりだった。自分の身は自分で守るしかないと感じていたので、抵抗もためらいもなかった。すでに言葉・革命・戦争不安の3点セットで情緒不安定になっていたので、冷静な判断ができる状態ではなかったのである。叫び


日本の常識は外国では全く通用しない。たとえばサウジアラビアでは最近まで、女性が車を運転すると逮捕された。そんな国で男女同権の話をしても、議論がかみ合うとは思えない。


信仰や正義という概念にしても日本人とはまるで違う。もし彼らの信仰を侮辱すれば、どんな仕打ちや報復があってもおかしくないし、話し合いで問題を解決する余地はないように思えた。ましてや戦争中のイスラム諸国ならなおさらである。


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     祈りの風景


しかし後になって、へたをすれば犯罪者になっていたと思い冷や汗が出た。犯罪を犯した人とそうでない人の間には、世間で思われているどの大きな差はない気がする。人は誰でも精神的に追い込まれると、とっさに犯罪行為を犯してしまうのではないだろうか ? ガーン



今思うと彼は親切だったし悪い人ではなかったような気がする。ただ、男女関係や恋愛に対する好みが違っていただけなのかもしれない。こちらがパニックって過剰に反応しただけかもしれなかった。


(イランでは男女の関係には厳格で売春は死刑だったので、同性愛者が多かった)




実際のところ、戦争中といってもそんなに緊迫した状態ではなかった。現地の人は長い戦争に慣れて、何事もないように普通に暮らしているようだった。もちろん戦時下なので、外国人がフラフラ観光していたら、秘密警察にスパイ容疑で捕まっても仕方がない状況ではあった・・・



                      クローバー

翌朝、気まずいまま国境の町で彼と別れ、無事ひとりでパキスタンに入国することができた。だが、ここでまた、私は思いがけず一文無しで放り出された格好になってしまった。国境の町には両替所がなく何故か銀行も閉まっていたので、ドルやT・Cを換金できず、残っていたイランの紙幣はパキスタンでは使えなかった。



幸いバスターミナルではイランの紙幣が使えたのでバスの切符を買い、ローカルバスを乗り継いで鉄道の駅のあるクエッタまで行くことにした。クエッタまでシルクロード上の道を通ってバスでは三日ほどかかる。シルクロードといえば聞こえがいが、要するに何もない不毛の砂漠が延々と続くだけである。



イランのバスはベンツ製の高級車だったが、それに比べパキスタンのバスは派手な装飾や絵が描かれた年季の入ったオンボロのバスだった。それに道があまり舗装されてないので、くぼみにはまると車体が激しく上下に揺れて、座ったまま天井に頭が当たりそうなほど飛び上がった。

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    シルクロード


イスラム圏のバスは突然止まる。バスに乗ってしばらくすると、何もない砂漠の真ん中で突然止まって、運転手以下乗客全員が外に出て行ってしまった。何事かと思って外に出てみると全員がお祈りをしていた。イスラム教徒は一日5回聖地メッカの方角に向かってお祈りするのが義務であり、そのため旅行者は携帯用の絨毯を持参している。


イスラム圏では祈りの時間になると、戦争中でも一時休戦になるほどだという。



ローカルバスなのでお祈り以外でも停まり乗客が乗り降りするのだが、ある時バス停でもない砂漠の真ん中でバスが止まり、みすぼらしい格好をした一団が乗り込んできた。パキスタン人は英語が話せる人が多いので聞いてみたところ、アフガニスタンの難民の集団だということだった。



彼らの顔つきが日本人とそっくりなのですごく驚いたのだが、アフガニスタンは多民族国家であり、彼らは日本人と同じモンゴル系ハザラ人だということだった。彼らは切符も持たずお金を払う様子もなかったが、当然のようにバスに乗り込み、バスの車掌も何も文句は言わなかった。



こうして私は偶然アフガニスタンの難民の人たちと出会い、それから三日ほど一緒に旅をすることになったのである。