どんな旅をしてみたい?

 

 

続編

東京の外人ハウスに住み、外国人の方々へ

日本語、日本料理、書道を教えていた私。

英語は大の苦手なのに、英語が話せる人以上に

外国人の友人たちにいつも囲まれていました。

 

そんな私が放浪の旅に出て、カルカッソンヌで

次々に自分の人生を激変させるような素敵な

出逢いに恵まれました。

 

カルカッソンヌのユースでの最高に素敵な

出逢いは、こちらから

 

 

スイスのローザンヌで、バックパッカーだった

私が知り合った世界の大富豪との出逢いは

こちらから

 

 

その他にも、たくさん素敵な出逢いがありました。

カルカッソンヌのユースは、世界遺産の

城壁の中にあります。2メートル近い長身の

セバスチャンは、まるで狸みたいな可愛らしい顔。

とにかく出逢ったたくさんのユースのスタッフの中でも、

ぴか一の盛り上げ役。カルカッソンヌは、小さな町で

見どころは城壁内位なので半日もあれば、観光はできて

しまうけれど、老若男女関係なくセバスチャンの人柄に

惚れこんで、長居する方多数。

 

私も異性としてではなく、人間としてセバスチャンに

惚れこんで、カルカッソンヌには何度も舞い戻りました。

と言ってもすることがないので、郊外にあるムービングという

フィットネスジムの会員パスを購入し、ユースで作った

お弁当をもって、毎日朝から夕方まで

ジムで汗を流したり、ジムで知り合った方々と談笑したりと、

たくさん素敵な出逢いがありました。

 

珍しくカルカッソンヌに大雪が降った日。

ジムを終えてバスに乗り帰ろうとしたら、

仲が良くなった女性が城壁まで乗せてくれると

言いました。途中、大雪で車が動かなくなって

しまい、車を降りて私が押して何とか脱出。

 

南仏の方々のおおらかさが、私には心地よく、

住むのならカルカッソンヌにも住みたいと思った程。

 

そのジムは、当時フランス中に150ヶ所ほど支店を

持っていた大型ジムでフランス各地で使えたので、

違う街に行く度に、観光案内所でその街にどこに

スポーツジムがあるのかお聞きして驚愕された

ことも。

カルカッソンヌから、地球の歩き方に小さく乗っていた

教会の飾りが見たくて、バスに乗って辺鄙な山の中の

教会に行った際には、バス停でバスを待っていたら、

旅行客が近くの集落まで乗せてくれました。

 

その集落でカルカッソンヌ行きの電車を待っている間、

教会でも見学しようかなと思ったら、閉まっていました。

 

外見だけでも見ようと思い一周したら、教会の隣に

住んでいる方が声をかけてくれ、教会の鍵を持っている方に

電話をしてくれました。数十分待っていると、私一人の

ために教会を開けてくれ、何と無償でその教会とこの村の

歴史も説明してくれました。

 

フランス各地に広がったペストは、この地で何とか

食い止めることが出来たそうです。

 

そして、何度目かにカルカッソンヌに戻った時のこと。

 

いつものように、ユースのキッチンで日本食を作り、

アメリカ人のマークと、オーストラリア人の女の子と

朝まで語り合っていました。二人とも、この後

バルセロナに行く予定と言うので、3人で旅を

一緒にすることにしました。

 

この旅行を機に、その後あちこちのユ-スで知り合った

人たちと数日間旅をともにする習慣がつきました。

 

3人で電車で、まずはペルピニャンへ。

ペルピニャンのユ-スで知り合った韓国人の男と子も

含め、4人でマティスが愛した港町、コリウールへ。

 

建物自体は凄く質素なのに、中は豪華絢爛だった

教会。

マティスの定宿のホテル併設のレストランで、

マティスの壁一面にかけられた絵を長いこと

堪能させていただきました。

 

その後、ペルピニャンのユースに戻り、その日の夜

知り合ったポーランド人のバルテッツも加えて、

翌日5人でアンドラ公国へ行くことにしました。

 

韓国人の男の子がレンタカーを借りてくると

言うので、4人で駅で待つも、何時間経っても

彼は一向に来ませんでした。

 

仕方なく、電車に乗り4人でアンドラ公国へ行くことに。

しかし、ペルピニャンを出るのが遅くなってしまったので、

乗り換えの駅でアンドラ行きの最終便に間に合わず、

真っ暗な中ホテルを探さなければいけない羽目に。

 

駅の近くには何にもなく、適当に歩いていると

いつの間にか国境を越えて、またフランスへ。

 

4人部屋が一室のみ開いていたので、4人で

一部屋へ。運よく1人1台ベットがありました。

 

翌日無人駅に戻り、アンドラ公国へ。

無人駅からの乗車だったので電車の中で

切符を買ったのだけど、他の3人には学生証の

提示を求めたのに、当時30歳だった私には

学生証の提示を求めずに、学生かも確認せずに

学生料金で売ってくれました。

 

この時、私は物凄く童顔で、例え日本でも

同じ日本人に高校生と思われたほど。

娘の9歳の時の顔に瓜二つだったかも。(◎_◎;)

娘の様に透き通るような肌の白さはないし、

金髪ではなく、黒髪だけど。

 

当然外国人からは、高校生に見えたようで、

お酒を買う時もバーに行く時も身分証の提示を

求められました。(◎_◎;)

 

娘のパパが娘に、娘を妊娠する前の私に顔が瓜二つ

だったと言ったら、娘は「大きくなってこんな顔になったら、

どうやって生きていったらいいの。」と言い、それから

毎日ネットで検索した食材を用いて顔用パックを作り、

せっせとお手入れに励んでいます。(-_-メ)

 

良く、外国人の子供が考えられないようないたずらを

する動画があるけれど、娘も彼らの上を行くいたずらを

毎日してくれたので、眉間に縦線(しわは禁句)が・・・

貴方と、あなたの馬鹿なパパのせいで、こんなに一気に

老け込んだのでしょうが!

 

話は戻って・・・・

 

また、4人で一部屋。2つのダブルベットがあったので、

私はオ-ストラリア人の女の子と一緒のベットでした。

 

アンドラ公国は税金がかからないので、お酒や

電化製品なども他の国と比べると安く、

皆でお酒を買い込み、朝まで語りつくしました。

2日間アンドラに滞在した後、お酒をもって

バルセロナへ。ユースの相部屋を開けると、

扉を開けた正面のベットでカップルが営み中。(◎_◎;)

 

4人でバルセロナ観光をし、夜はユースのキッチンで

私が食事を作り、数日間大いに語りつくしました。

 

バルテッツは、その後ヒッチハイクをしてポルトガル方面へ。

オ-ストラリア人の女の子は、留学先に戻りました。

アメリカ人のマークと一緒にバルセロナ観光を続け、

フランス語、イタリア語、スペイン語も話せる彼と

毎日言語を変えて話しました。

 

彼はこの後、フランスに戻り二ームのユースで

アメリカから来る友人と一緒にクリスマスを過ごし、

再度スペイン、ポルトガル、モロッコに行くとのこと。

 

私はユースで知り合ったアメリカ人の女の子と

一緒にサッカーの試合を観に行くことにしました。

当時、バルセロナには、フランス代表のエマニュエル・

プティが所属しており、彼の頭脳プレーが大好きだった

私。

 

ヨーロッパのスタジアムでサッカー観戦するのは

これで4度目でした。

 

私も年越しは日本で日本語を教えていたパリジェンヌの

家にお呼ばれしていたので、フランスのアヴィニヨンに

行くことにしました。

 

しかし、アヴィニヨンのユースはユース協会には

加盟していないユースで人も少なく、シャワーも

冬なのに水。(◎_◎;)

 

こんなところでクリスマスを過ごすのは嫌と思い、

マークがいるニームへ。

クリスマス当日はお店が開いておらず、

レストランも見当たらず、クリスマスなのに

食べ物がないという状態でユースに行くと、

マークがご馳走してくれました。

 

翌日は私が腕を振るいました。

ユースのスタッフ、アンディが、セバスチャン

みたいな人で皆を大いに盛り上げ、

世界中からの旅行客とクリスマスパーティーが

盛り上がりました。

 

マークに友達と3人で一緒にモロッコまで

旅をしないか誘われたけれど、私は

友人のいるパリへ行くことに。

 

その前に、ニームのユ-スで知り合った

アメリカ人の女の子と2日間旅をともにすることに。

 

マークと彼の友達は、その後モロッコで

荷物を盗まれてしまったそう。

それでも旅を続けることができるなんて。

彼とは数ヶ月後、パリで再会しました。

Facebookのマークに名前だけでなく、

顔もそっくりな気が。

 

バルテッツは、その後オランダが気に入り、

オランダで長いこと暮らすことに。

 

放浪の旅で一番楽しかったのが私たちと

旅を一緒にしたことだそうで、その時

私が撮った写真を送ってほしいと言われました。

その後も、ヨーロッパ各地で知り合った人たち

と数日間旅をともにすることに。

 

また、何故か他の場所でも世界の大富豪と

お知り合いになることが出来ました。

 

旅での出逢いが私の人生にとって、

一番の宝物です。