これはある一つの魂の、私というひとの話。
これは私のお話。
これは私という人格の心の傷のお話。
初めに、これは私が私の人生で一番書きたくなかったことです。
誰にも見せるつもりもなかったし、開示するつもりもなかった。
だけど今年に入ってからやっぱりちゃんと私という人格がどのような形で形成されてしまったのかを記録として残しておきたいと思うようになりました。
そしてこれを発信することで誰かの癒しになれば、しいては私自身の癒しになればと思って敢えて今の私の言葉で開示します。
やっと今のタイミングで自分のとんでもなく大き過ぎる心の風穴(ブラックホール)と向き合う準備ができたようです。
私自身の過去の清算、人生の棚卸、本来の魂の新しい風に乗るための最後の整理整頓。
もしかしたら、私の記憶の彼方にまだ傷ついて穴になってる部分があるかもしれないから。
すこし泣きながら、もがきながら書いた言葉です。
読みずらいかもしれないし、脈絡もないかもしれないし、スピリチュアルな変な視点のことも書きます。
だけどこれが私の本当の気持ちだから、嘘偽りなく記録に残したいと思います。
【こんな方に読んでみてほしい】
◉親子関係で悩んでいる人
◉アダルトチルドレン(AC)だと思っている人、自覚のある人
◉インナーチャイルドの癒しについて興味がある人
◉小さい頃にトラウマ的な出来事があった人
魂の癒しとは?
フワスピ卒業したいなって人
このお話は、地球に降り立った私というひとつの魂のストーリー。
わたしが自分で宇宙で決めてきた私という存在の一つの道筋である。
私自身は、生まれた時からから外側の誰を恨んだり憎んだりはしていない。
(自分自身が心底、大嫌いで恨んではいたけど。あとは神様を恨んだ。)
だって、全部自分で決めてきたストーリーだから。
だからこれを見て、可哀そうだと思わないでほしい。
なにかを分かってほしい人だと思わないでほしい。
わたしもそうは思わないから。
全てはわたしであるための、今世の私の地球での必要な学びだったのだと、今なら思うから。
いつからだろう?
母と子は愛情関係で結ばれていると言われ始めたのは。
いつからだろう?
母は子を愛し、子は母を愛すのが当たり前だという認識になったのは。
果たして、私にとってそれは真実だっただろうか?
【わたし】
物心つく前からか、いつからか。
「ひとは何故生きていくのか?なんのために生きるのか?何のために産まれるのか?いのちとは?」
そんな禅問答のような思考を隠し持っている少し不思議な子供でした。
自然が大好きで、お水が流れているとお水と遊びたくなりました。
風も大好きで台風の日なんてこっそり外に出てゴーゴー言ってるのをただ黙ってみてました。
雪の日も雪原に寝転んでフワフワ舞ってくる雪の降るキラキラした音をただ聞くのが好きでした。
とても内気で心を許せるような友達なんて一人もいませんでした。
(月星座がおひつじ座なのにねw)
私は自宅の2階のトタン屋根に干した布団の上で太陽のぬくもり香りとそよ風に吹かれて昼寝をすることが少し幸せに感じるそんな子供でした。
そして神社がすぐ近くにあって、ずっと多分見守られていたんだと思います。
あ、5~6歳くらいからはお腹がすぐに下る子でビオフェルミンが手放せませんでした。
偏頭痛も小学校低学年からあって、イブも手放せず…
常にお腹ぐるぐる、頭もフラフラ。
今思えば想像以上に肉体に負担が掛かっていたのでしょう。
誰かのせいにすることもなく、母からの無意識の人格否定を受け取り続けて。
お腹が落ち着いてきたのは、18歳で上京し家を出たあたりから。
偏頭痛は30歳くらいまでずっと続きました。
身体は常に不調を訴えてくれていたのに、私は何もしてあげられませんでした。
ごめんなさい、わたし。
ごめんなさい、身体。
ごめんなさい、心。
【母と子の愛情関係は幻想物語】
母と子。
最初にこの地球に私の個体として降り立って、初めての人間関係。
初めての愛情関係、初めての安心関係。
愛情関係があるべき、絶対な安心があるべき、護られて当たり前の環境。
私には、残念ながらそんなごく普通の甘い場所は用意されてなかったみたい。
ここで私みたいに迷ってしまう悩んでしまう戸惑ってしまう苦しんでしまう子供、たくさんいたと思う。
特に冥王星蠍座世代(1983~1995年)はそんなひと多かったんじゃないかな?
(もしくはその予兆の出る冥王星天秤座世代あたりも・・・)
魂的なジェネレーションギャップ。
土の時代と、風の時代の切り替え時に向けた意識の転換期はすでにここから始まってきてると私は思っている。
子は産んでもらったのだから愛さなければいけない。
親は産んだのだから愛さなければいけない。
それって私にとって本当の真実だろうか?
なんだか違和感しかない。
ここに残念ながら、親子関係の愛情のやり取りは私たち親子には既になかったように思う。
(上から目線で申し訳ないが、わたしが母のちいさすぎる愛を理解できないように、母にもわたしの大きな愛は理解できないだろうからね)
【本当は母が大嫌いだったわたし】
私はハッキリ言って母が嫌いだ、大枠として「地球上に住まう人の魂としては愛してはいる」けれども正直、人格として一人の人間として母として軽蔑しているし、話していてもお互いに通じることはほぼない。
何故なら明らかに視点が違いすぎるから。
見ているモノが違う。
これに気づいたのは、今年の3月に実家に帰って話をした時のことだ。
自分の気持ちを整理整頓するために、帰省して一生懸命自分の今の話をした。
結果として両親からあなたの考え方は間違っていると否定されることに。
小さな私の口から最終的に搾り出たのは「…きらい」のちいさな一言だった。
ハッとした。
そうか、私この人のこと本当は嫌いだったんだ…。
母は私の話を聞いてくれない、母は私の選択を尊重してくれない、母は私の自尊心をすべての出来事において見事にぶち破って否定してきた。
母は、「私という存在がこの世界に安心して存在していていい」という肯定感を全ての出来事において破壊した。
母はとても感情的な人間で、すぐに激高する。
母は自分が悪くても決して謝らないし、逆切れする。
母はいつも自分が正しいと思っている。(本心ではどうかは知らない。)
母に褒められたことが無い、いつも一言二言何か余計な言葉が多い。
母は私を人生で一度たりとも抱きしめてくれたことが無い、母は小さなころから私や弟によく感情的に手を挙げた。
母は母なりに赤子(私)を死ぬ思いで育ててたと泣きながら言っていた。
私にはハッキリ言ってそんな事情、知らないしなんら関係ない。
感情的に頬や頭を打つことは、この世の真理として正解の選択なの?
今ならハッキリそう言いたい。
私は赤子のころから痛かった、悲しかった、不安だった、怖かった、を生きるために必死にひた隠しにしていたら、「ひととして生きていくこと」がどんどん分らなくなって自分を見失っていった。
感情が20代半ばまで死んでいたよ。
いつも何かを誰かを恐れていた。
私が喋れば誰かが傷つく、私が動けば誰かが傷つく。
私は罪の塊なんだ。
私は、本当にこのまま生きていていいのだろうか?
ドンドン自分を恐怖でがんじがらめにして動けなくなっていった。
周りの全部が敵で、常にヒソヒソ陰口言われていて辛かったよ、でもこれは自分が全部悪いと思って耐えていたよ。
私は、全てにおいて自分に自信が持てなかったんだ。
それは今思えば、私がわたしからの逃避で必死に痛みを無かったことにして堪え続けていたんだ。
安心できない環境を受け入れるにはあまりに幼過ぎたからね。
【私の家族と魂の関連について】
私の家族は4人、父、母、年子の弟。
いわゆる典型的な核家族である。
この年子が、またなんで年子にしたのが意味不明。
この事実に関しては私にとっては罪でしかない。
せめて3年離れていたら私の心の傷も超重量級のブラックホールにはならなかったのかもしれない。
この一家ですが、ワタクシが物心つく前から両親の不仲で言い合い、喧嘩の絶えない家庭でして環境としては最悪な状態でした。
しょっちゅう、母が激高し父がやられている姿を年360日×18年ほど見てきました。
因みに父はのらりくらりの責任逃れ野郎(うお座w)
それが当たり前のようになっていったけど、私にとって本当はとてもストレスだったようです。
外にお出掛けしてても車の中で延々と繰り広げられる言い合い。
車の中はマジできついってw
子供ながらに面倒な親に気を遣いながら生きてきました。
定期的に生きること全部嫌になって布団をかぶって、寝てました。
思い返せば、生きてる実感が無かった気がする。
当時の築50年ほどの昭和な家は、防音なんてほぼなくて子供部屋にも全部筒抜け。
とにかく、私には小さなころの記憶がほぼないのです。
傷ついた記憶しか。
両親はそんなのなくて当たり前だとよく言っていましたが、本当にそうなのでしょうか?
それってただの辛すぎて記憶に留めておけてないだけじゃないの?
覚えているのはとにかく母親に打たれまくったこと、それが痛かったこと、私の選択しようとしたことを全て否定してきたこと、極度のストレスで気力がなくなって寝ることに逃げてたこと、仲間と旅する憧れの夢物語が展開するTVゲームに夢中になって逃げてたこと、誰かの怒号がとても怖いこと、周りの人間は誰も一人も助けてくれなかったこと(父を含め)、じぶんで選ぶこと、変化することが怖くなっていったこと、親の言う社会的なことが全て正しいみたいな観念を植え付けられたこと。
悲しいことにあまり良い思い出は思い出せないんです。
因みにスピリチュアルな視点でよくある「家族になる魂たちは前世で繋がりがあったりする」は私のケースは全く当てはまらなくて。
むしろ私はこの三人とは全くの魂の所縁はないし、彼らは全員とにかく魂が若い。
これは様々なスピセッション4人くらいにほぼ同じ内容のことを言われているから私の中でもほぼ断定できる。
申し訳ないけど、私の魂は君たち3人とは明らかにレベルが違うんだよね。
もちろん視点も違いすぎるから、いろんな出来事に違和感全開だった言語化できない小さな私の感覚は正解だったのだ。
そしてどこまで信憑性があるかは不明だけど、一人の人に言われた母の「魂」自体の初子が私だそうな。
まぁそうだろうね。
でもそこで初子の割にはよくやったとは今のままでは、褒めてあげられないね。
余りにも未熟なことだらけだったから。
私は絶対に子どもにはその発言、選択はしないってことばかりだったから。
【可哀そうなお母さん】
実は私の傷の始まりは、私が産まれる前からある。
母は、義母(父方の母)に二度も強制流産させられている。
これは母の口から直接きいた話。
母は20代前半の若いのに、何も知らないのに義母に病院に嘘をついて連れていかれてそのまま堕胎させられたと。
それも二回も。
私が産まれる数年前の出来事だろう。
そりゃ、子宮に負のエネルギー溜まるよね。
特に女性は感情が子宮に溜まる。
若い魂だし、自分じゃ浄化しきれなかったんだろうね。
まぁその件に関しては残酷だけど、それすら自分で決めてきたストーリーなんじゃないの?と私は母に対して思う。
自分が全て正しい母にはきっと理解が出来ないと思うけど。
いつもお墓参りすると物心つく前から普通のお墓と水子観音さまに手を合わせていた。
何故だかは理由はずっと知らなかったし、なんら疑問にも思わない習慣だった。
理由を知らされたのは私が18歳を過ぎた、家を出た後だった。
この時に聞いた話は、忘れようがない。
「本当に愛していた人とは結ばれなかった」→これに関しては3歳の私が知っているのでのちほど。
「実は水子が二人いました」
後悔しないように生きてほしいと言われたような気もするけど、もはや記憶が薄い。
私的にはなんでこんな20歳くらいの時にこんなクソみたいな話を聞かされなきゃならなかったのか意味不明。
だけど、多分これにも意味があるとは薄々思っていたよ。
実際に意味はあったと思う。
今現在、私自身が母の水子供養を習慣として毎日しているのと、わたし自身にどうも一緒にいるような気がしていたから。
死にたくなっても死ねないのは、この子たちの分も生きなくてはいけないと自分に言い聞かせていたから。
そして、堕胎の宇宙的ストーリーとしてこの水子たちと上(宇宙)でのやり取りがあったような気がするのだ。
おそらく、私はこの母を選んだというよりはその二人に依頼されてここに来たような気もする。
(こいつ(母)魂的に若すぎるし色々消化不良メンヘラで大変過ぎるから、手練れの君ちょっと浄化しに行ってきてくれない?みたいな感じ超フランクw)
つまり、私は生まれた時から生まれる前からすでに母を癒すためにこの母の元に産まれたと言っても過言ではないのだよ。
お腹の中ですでに仕事しております、偉すぎますわたし!
ヒーラー冥利に尽きますなw
育成環境、最悪だったけどねw
おかげさまで経験値は爆上がりしたのかなーw
こんな土台が私にはあって、いろんなエピソードを踏まえて小さな私の気持ちをこれから綴っていこうと思う。
【1歳児のわたし】
一番最初のトラウマはここから始まるのが私流…なんでこんな物心つく前から、傷ついてるねん。
「ママはどこ?ここはどこ?私はなんでここに居るの?怖い、不安、違う匂いがする、助けて、嫌だ」
これの解説をすると聞いた話だと、年子の弟が産まれてすぐに核家族の私の家では母だけで産まれたての赤子と私(1歳児)を見ることが無理となったようで、父方の実家に預けられることになったらしい。
何週間、何か月、他人の家(父方の実家)に居たかは知らない。
そしてその間そんなに泣いたり暴れたりした様子はなかった模様。
つまりむっちゃ我慢して人んちに預けられたの受け入れてたみたい。
元々泣かない大人しい赤子でしたからな。知らんけど。
それか、1回暴れて何かを悟って諦めた可能性もあるな…。
なんかふとそれが来たからそうなのかもしれない。
だけど、母がよく父に喧嘩で
「あんたのせいで、この子(私)帰ってきたら暫く引きつけを起こすようになったじゃない!この子の人格が歪んだのはあんたのせいだ!」
とよく言っていたので、あんまりいい環境下で置かれていなかったのは明白だし。
というか何故父のせいにするか不明。
預けるの決めたの母親のあんたじゃないの???
1歳で母と引き離されて弟はスヤスヤと寝てたら、そりゃ殴って当たり前。
私の居場所がないはここからスタートすることになりました。
自分の気持ちを吐き出したら上みたいな不安な気持ちしか出てこなくて、衝撃だった。
違う匂いがする、は本当であんまり父方の家のにおい好きじゃなかったのだよね。
年間行事の度、行くたびに心臓バクバクしていたのは忘れない。
なんかあったのは事実だろうね。
内気な私はここが原因な気がしているが、はて?
【3歳児のわたし】
ある日、母が家で電話を取って話をしていて突然、号泣した。今でもはっきり覚えている。
そのやり取りを見ていた私は幼心に「この人なんだか少女みたいだな…」と思った記憶があった。
それは正解で、母はこの時10代の自分に戻っていたのだろう。
あっちに行ってなさいと部屋を出ていくように言われて出ていった私。
電話越しに漏れてくる母の声と涙。
これは何かは実は未来の私が知っている。
そう、これは「母が本当に愛した人」からのたった1回の電話だった。
この頃の母は、離婚を考えていて本当は全部投げ出してその人の所に行きたかったと言っていた。
でもその人もすでに家庭があり、新しい人生が始まっていたのだ。
私はただ母の痛みに寄り添うことしか出来ないと小さいながらに思った。
マジで自分の心の痛みとかどうでもいいのね、私。
この頃すでに、母の機嫌による激高と頭を打たれることはあったし。
泣けてきちゃうよね。
それでも子供心ながらに寄り添おうとした私はあまりにも優しすぎたのかもしれない。
どんだけ大人なんだろうか。
いや、大人になることを親から無意識に要求されてきたのかもしれない。
言い過ぎではないと思う、私がこの余りにも未熟な親たちを「私の成長」を通じて育てたのかもしれない。
【やりたくなかったピアノ】
5歳のころだろうか。
母の要望で、いくつか習い事を見学に行った。
一つは超近所のバレエ教室。
もう一つはピアノ教室。
バレエは発表会のためにほぼ頑張る感じ。
ステージなんて出たくない。
人前で何かするとかあり得ない。
モジモジして終わる。
見学したのに多分記憶がないのでした。
ピアノ・・・別にやりたかったわけじゃないけど母が楽しそうなのでやった。
結果、ピアノもちゃんとしたのを買ったけど全然練習しないし、上達しない。
バイエルン②くらいで6年間ずーっと止まっていたような気がする。
検定も受けたくないし、取りあえず行っていただけ。
楽譜も読めないし、努力が出来ない。
発表会もボロボロ。
あんな光に照らされて、あんな大勢の前で恥さらし。
ドンドン嫌になっていった。
あとで知った。
ピアノは母が憧れてやりたかったことの一つだった。
私はそれにただ付き合っただけだったのだ。
音楽やるならバイオリンかフルートが良かった。
【6歳のわたし】
何故か、肌感覚で分かるのですが気付いたら近所の周りの大人や子どもたちからヒソヒソ言われているような感じになってました。
つまはじき者、みたいな感覚をこの頃からずっと抱えることになりました。
あそこんちの子ども。
父方の実家は自転車屋をやっており、名前も同じ苗字を名乗っていたのでそういう目で見られました。
いわゆる色眼鏡。
父方の実家があまりいい評判ではないので、そういう色眼鏡をかけさせられて正直不愉快でした。
別に何かトラブルを起こした訳でもないのに。
さらに母が田舎の割には東京かぶれで風変りなせいもあるでしょう。
(社交的に見せて結構ズバズバ言いすぎるので、上手くやれているように見えてそうではないような?)
その辺の普通のお母さんたちより、綺麗に装ってましたし、実際に若かったので東京かぶれの服もよく着ていました(自分に似合う服ね)
そんな嫉妬みたいなのもあってか、悪目立ちですよね。
ある日私は母の気に障ることをやってしまったようで躾と称して叱られて、家から閉め出されて(家に鍵をかけられた)玄関をたたいて泣きわめく私を遠目で近所のそいつらは興味津々に見ていました。
人前でこんなことになり恥ずかしかったし、どこにも逃げ場がなくて悲しかった。
結局のところ、ここでも「何処にも居場所がない」更に植え付けたのは母ではないのでしょうか?
この頃の私にはどこにも行く場所も、行ける場所もなく家に居るしかなかった。
せいぜい逃げ出して近所の公園にいるくらい(ただし、人がいない前提で)
同じ子供がいると普通の子どもなら一緒に遊ぼうがあるけど、私は逃げ出したし嫌だった。
それは誰かに何かヒソヒソ陰口を言われていることが分かっていたから。
人目をものすごく気にしだしたのは、この辺からかもしれません。
【7歳のわたし】
相変わらず、母親の機嫌を伺うようになる。
朝ごはんも小学校入ってからはセルフ。
自分でご飯をチンするか、パンを焼く。
二階で寝ている朝に弱い母を起こしたら機嫌が悪いから、とにかく起こさないように静かに静かにそっとトーストを焼く。
遅番で父がいるときは、たまにねだって卵焼きを焼いてもらった。
気まぐれで起きてるときは作ってくれることもあったけど、それも年に数回だけ。
この年辺りがかなり色々あったような気がする。6~7歳にかけてだろうか。
◎ご近所トラブル編◎
さて、そうこうするうちにご近所トラブル勃発。
声がでかくて煩い近所の医者の娘のA子。
なんの約束をしたのか私は未だに覚えていないし、どんな回答をしたのかも覚えていない事件。
A子から一緒に遊ぼうと言われて、私が「お母さんが遊んじゃダメ」と言っていたから行けないと言ったらしい事件。
A子の親が大激怒して殴りこんできました(すでに何かがおかしいw)
私は元々A子のことは少し苦手で性格悪いとは思っていたので、そう来たかと。
そして、それに対して親が私をめちゃくちゃ責めて、言ったか言ってないかハッキリしなさいと詰め寄ってきたのを今でも忘れません。
言ったならちゃんと謝りにいかないといけないんだよと。
なんで子供のこんな言った言わないクソみたいな話で大問題になるのか未だに私はよくわからない。
田舎の付き合いこわっ
この頃の私には既に毎日の記憶喪失システム(痛み除け)が起動していて、そんな会話した記憶もなにも御座いませんなのに、昨日一昨日のことを思い出さないといけないというきつい地獄。
今現在Oリングで聞いても私は言ってないらしいので多分相手の妄言だとは思うけど、それとも私が行きたくなくて嘘をついたのか。
もう今では分からないけど。
親が結局うちの子(私)は嘘をついてはいない、そんなこと言っていないと突っぱねて
とにかくここから近所のつまはじき度が加速して周りにマジで誰も居なくなった。
町内会のイベントとか気まずいしヒソヒソされるし、仲間はずれの地獄の極みなのに何故か親は普通に行かせた。
何度も行きたくないと言ったのに、悪くないのなら行きなさいと。
私はこの頃から言われていたのかもしれない、人とちゃんとコミュニケーションを取りなさいと。
そういうことじゃない。
ジロジロ見られる視線が痛いんじゃボケ。
大人も子供も皆痛いものを見るような目だったのを私は忘れない。
感受性が高すぎる私にはハードルが高すぎて、これ以降の町内会のイベントは何一ついい思い出が無いし覚えていない。
いつも溜息と共に行く嫌々行くしかなかった。
多感な時期の12歳までずっと普通に行きなさいと親の言うことを聞いて、私はきっと心に少しずつ蓋をしていくようになったのかもしれない。
たまに他の町内の子どもと遊ぶ程度になったけど、それでも私の居場所は何処にもなかった。
◎学校で先生に打たれた事件◎
短い休み時間に菜園に行くのが好きだったような気がする。
その事件も菜園で。
遊びに夢中でそろそろ戻ろうと誰かが声をかけてくれたけど、戻らなかった。
10分くらい遅刻して戻った。たぶん。
多分、月星座おひつじがちゃんと出てたら気が済むまで戻らなかっただろうな…(笑)
多分、本来の私にとってはそれが正解だったのだろうよ…
チャイムが聞こえなかったと言い訳したような気もする。
そしたら先生に打たれた。
打たれた事実を親に言ったら、先生に即電話。
事情を知った親、お前が悪いんじゃないかと私を𠮟りつけた。
ちがう、そうじゃない。
そこは叱るんじゃなくてまずはどうしてそういうことしたのか聞くのが先ね。
どんな時もヒアリング先。
マジでわかっとらんから、すぐに打つ、怒るが先に来る。
つまりは私のこと、こういう子と決めつけて知ろうともしなかったのだろう。
私はドンドン拗れていった、自分でも知らないうちに。
【8歳のわたし】
何故か急にペットを飼おうとブリーダーさんから直接、選んでラブラドールレトリバーの赤ちゃんを貰ってきた。
家に合ってる子で、とっても頭もいい天使みたいな子だったけどたった3か月もしないうちに死んでしまった。
原因は、赤ちゃんのうちに食べさせておかなくてはいけないお腹の虫を殺す薬をどうも多頭のため、この子だけ飲み漏れたみたいで。
気付いたころには手遅れだった。
まさかこんなことが起るなんて。
その後ブリーダーさんから良かったらと、兄弟犬で余ってて引き取り手のない代わりの子を迎えるか、向かえないでひと悶着。
母は家に来た子はもう居ないんだからもう要らない。この子の代わりの子は居ない。
父は犬がやっぱり飼いたい。
結局、父が連れてくることになった子がまた超問題児で。
来て早々椅子の下に隠れてうなり声をあげた。
明らかな問題行動。
そして結果としてヒエラルキーが犬>人間になってしまって、1年ほど飼育したが早々に外に出す番犬となり果てた。
散歩もリードをかなり引っ張るので子供では無理なレベル。
そして頭も悪く、夜になると吠えまくっていた(本当にラブラドールなのか??というレベル…)
母はストレスで血尿が出たらしい。
身体がもう限界だから犬をどうにかするとなった。
もし「もう飼わないなら犬は他のうちに引き取ってもらう」と言っていたけど、その言葉と裏腹な両親の態度に私にはどうも何かが引っかかっていた。
家族会議。
一人ずつどうしたいか、聞かれた。
父はこのまま飼いたい。なんかとても悩んでいた様子だった。
母はもう要らない。
弟ももう要らない。
私の答えは本当は「分からない、どっちでもいい」(選べない)だったのに色々感じて考えてたら口から出たのが「このままでいい」だった。
母激高!
お前は私の身体がどうなってもいいのか?ひとの心はあるのか?何を考えているのか?この人でなし!ととにかく責められて殴られた。
何故父に味方しただけで、こんなに何度も怒られなきゃいけなかったのか意味が分からなくて泣いた。
これのことの顛末は「保健所に行きますか?行きませんか?」だった。
(この真実は今年知った。)
私は正直、全部その隠してた保健所のこと薄々気付いていて多分どうにもならなくて、父の深刻そうな姿をみての「このままでいい」だったのだ。
余りにも優しすぎて、人の顔色伺って、何かが変だと思っての言葉だったのに家族の誰も誰一人それに気づいてくれなかった。
今でも自分に聞いても「わたし悪かったのかな?」なんて言ってたりして、そんなことは絶対になかったよ。
あなたの感覚は間違ってなかったんだ。
だってあれはいのちの選択を迫っていたのだから。
というか結果としては、原因を作った父が悪いの一点なんだが。
それに巻き込まれて貰い事故して自尊心傷つけられた私ってなんなん?
とにかくこんなエピソードがありすぎて、私は波乱万丈すぎて常に疲れていたのだ。
もっと馬鹿で居たかった。
もっと何も考えない幼少期を過ごしたかった。
親の顔を伺う子供の哀れさを身をもって体験したのだ。
魂のカルマ的な縁の全くないアウェーな家庭でw
しょっちゅう気に入らないと、過去のことをほじくり返してはあの時あんなことを言っていたという母。
そして激高すると殴る。
あなたはいつもそうやって「過去」に囚われていたんだね。
私たち姉弟はいつの間にか、母が上に手を挙げただけで身構えるようになっていった。
【ある日ハッとした母】
中学入るか入らないかの辺り。12歳くらい?
あるとき、母が何気なく手を上にあげた。
私たち姉弟はビクっと打たれる身構えをした。
私はその時の母の顔を忘れない。
一瞬、ハッとした顔をした。
そこから殴ることは少なくなっていったのを私は忘れない。
【中一で保育園の記憶がない私】
これは未だに解決できてないんだけど、中学入ってすぐにクラス発表があってどうやら保育園だけ一緒だったらしい子がすごく親しげに話しかけてきた時があった。
〇〇だよね?
うん、そうだけど…
〇〇保育園で良く遊んだよね
…そうだっけ?
顔も知らないし、記憶もない。
親しげに話しかけられても…と戸惑って終了。
本気で誰だかわからなくて、私は私自身の記憶を疑った瞬間だった。
【中学生きたくない、高校行きたくない事件】
毎回、節目節目で私は抵抗したらしい。(記憶がないので覚えていない)
要は変化がとてつもなく怖くて行きたくない病になっていたのだろう。
それはある意味、幼少期の自己受容、自己肯定感で決まってくるのではないだろうか?
この頃、未知への恐怖と無気力で私は毎回勝てなかったのである。
引きこもりは親が許さなかった。
だから小学校、中学校、高校、風邪以外は一日たりとも休んだりしなかった。
そもそも風邪もそんなにならないからほぼ皆勤賞…
ずる休みなんて親にバレたら怖くて出来なかった。
嫌でも毎日朝起きて、ため息つきながら行くしかなかった。
因みに高校も自分でお弁当を作って行ってました。(レンチンだけどね)
言えばお金も貰えたかもしれないけど、家計厳しいから贅沢は言えなかった。
そういえば、母が作ってくれたのは唯一運動会とか遠足のおにぎりと卵焼きでした。
小学校から朝ごはん自分でやってたし、なんなら夜ご飯は中学辺りからは親はパチンコに通い詰めていたので出前もしくは自分たちで作ったりだったのが多くなっていったような気がするね。
まぁ別にそれはどうでもいいことだけども。
【私の選んだお土産はいつも難癖をつけられる】
小学、中学、高校。
修学旅行に行くたびにお土産を買うのが苦痛でした。
何故なら、買って帰る度に「こんなもの買ってきて・・・」と叱られていたから。
別に変なモノを買ってた訳でもないのに。(何買ったら叱られないか考えるようになってしまった)
それと対比して、弟の買ってくるお土産には母大絶賛。
美味しい、ありがとう。
私もそんな風に喜んでもらいたかったな…一回もそんなの無かったよ。
毎回お土産コーナーに行くのが心臓がバクバクして苦手だった。
変なモノ選ばないようにしなきゃ、しなきゃ、しなきゃ。
しかも未だにそんなことを言ってきたりする。
有名なパティシエのお菓子を送っても、「甘すぎた」とか余計な言葉ばかり。
この人は一生私にはありがとうを言うつもりが無いんだなって思った。
【唯一の私の心のオアシス】
父が知り合いからよくTVゲームの本体を貰ってきていた。
そこで出会ってしまったのはRPGというジャンルのゲーム。
様々な人の生き様が交錯して、時には敵となり仲間となり繰り広げられる世界、ストーリーに私は夢中になった。
出来ればこんな世界で生きたかった(厨二病という名の現実逃避を発症する)
何十ものタイトルの物語を遊んだ。
色んなストーリーに感動する。
親子愛、仲間との絆、敵の背景。
この頃の私の世界を彩っていたのは彼らの愛と勇気と希望の物語だった。
【オンラインゲームの暗黒(?)時代】
いつからだろう?
高校入ったくらいから、家にパソコンを買ってそこからオンラインゲームに傾倒していく。
ラグナロクオンライン通称、RO
ほぼベータ版の初期からやっていて、ゲームの中で拾ってもらった人たちとコミュニケーションを取るのが楽しかった。
口下手だった私だけど、ここだけは唯一少しずつ私の心を溶かしてくれた場所だったように思う。
色んな年齢層の人たちがいて、色んな事が数年の付き合いであったな。
高校には寝ないで行って、学校で寝てたりしてた時期もあるくらい夢中になってやってた。
この時代にオンラインでコミュニケーションなんてまぁまぁ最先端だったのかなー(笑)
【高校は行きたい高校に行けなかったし、結局、高卒就職になる】
毎度毎度転機の度に揉めた。
中学行きたくない、高校行きたくない、高校卒業したら何もしたくない。
そんな中でも希望は出していたのに全てはじかれた。から無気力になった気がする。
「私」高校は少し遠くても共学の高校が良い
→偏差値が低い、レベルが低い、遠いから、近くの女子高に行きなさいと塾へ通わせさせらた。
「私」高校卒業したら何をしたい?動物を何度か亡くして悲しいから動物のための仕事がしたいトリマーとか動物病院で働きたいから専門へ行きたい。
→そんなんで飯が食っていけるか、金が稼げるか?ダメ。もっと現実的なのにしなさい。看護師になりなさい。看護大学は?
「私」(受験、お金がかかる。来年は弟が。)看護大学は頭が足りないので無理です。看護師やりたくないです。(採血とか無理)
はい、じゃあ取り合えず高卒公務員(警察官)を目指します。
受験は見事に失敗。
ギリギリでやりたい意思もなんもなくなって、面談だらけの毎日。
「私」じゃあもういいです。就職します。県外が良いです。できるだけ遠いところ。東京に出ます。
→寮付きの所にしなさい。社保は必ず完備してるところで選びなさい。見学は一緒に行きます。
ということで寮付きの歯医者に就職することに。
私は私の希望を叶えられない。を植え付けまくってくれた瞬間でした。
あの時、もし反対されずに専門学校に行っていたらもっとこんなに何十年も苦しまないで済んだかもしれないと思うと少し泣きたいです。
ということで、覚えてるエピソードがこんなんばっかで、私にとっては窮屈で母親の願いを叶えてきたはずの人生でしたのでそこからもう抜け出すと決めて数年。
心が少しずつ自由を感じています。
私って元々はこんなに固定概念が無い人だったんだなって改めて思います。
そして自分の心に正直になることの大切さを改めて感じています。
私は敢えて親に反抗しませんでした。
反抗期もありませんでした。
反抗しても私が疲れるし傷つけられるだけなのを分かっていたからだと思います。
節々で行きたくない病は発症しましたが、大人しく行ってましたし。
人は誰しも傷を生きてるうちに負うもの。
だけどそれが幼少期となると、とにかく抜け出すことがとても困難に思います。
追体験しようものなら、今回も大変でした。
身体は重たくなるし、頭はガンガンに痛いし、お腹はぎゅるぎゅるするし。
こんな状態で良く生きていたと改めて思いました。私凄すぎる。
とにかく私の中ではこの体験は、人の痛みを徹底的に知るということに関してはとても学びになったと思います。
それはわたし自身の痛み、そして母の癒されない痛み(自分で選択してる)
「痛み」は自分で無かったことにしてしまいがちですが(特に幼少期のは)、それがあることでしっかり今までブレーキをかけてくれていたんだと思います。
社会を生きる上ではね。
でもこれからの時代、社会で規則正しく生きる喜びより、個で生きる喜びを私は選びたい。
だって皆の魂もそのために産まれて来てるはずでしょ?
だから、もうこの古傷とはさよならをしようと思います。
真新しいわたしと出会うために。
そのためにこの長ったらしい分を書きました。(書き過ぎだと思いますが…)
「痛み」は自分を知るためのギフトです。
どうしてここで躓いてしまうのだろう?という考える感じる
力になります。
どうか、痛みを怖がらないでください。
どうか、痛みに蓋をしないで下さい。
蓋をした分だけ、色々と気付くのが遅くなります(笑)
感じ切ってしまえば、それは終わります。
そして私はきっと誰よりも人を尊重することの大切さを知っているし、人の尊厳はお互いに侵すことは出来ないことも知っています。
同じように悲しい寂しい心に風穴が開くような思いをする人を少しでも減らしたいと願っています。
痛みは私に痛い分だけ大きな優しさをくれました。
それは愛というギフトです。
産んでくれてありがとうとは、多分もう言えないでしょう。(20代の頃に一度言いました)
言うとしたら、母の人生が終わるとき、終わった時にこっそりでしょうかね。
そんな関係でも別に気にしなくても良いと私は思っています。
愛情のやり取りをするだけが、親子の学びではないのですから。
私はもうわたしを見つけているし、わたしの考えていたこと、感じていたことをある程度分かっているつもりです。
私のわたしに対する理解がきちんとあれば、ちゃんとした愛で満たされていくのです。
人それぞれプロセスは違えども、こんな解放の仕方もあるよと私は記録として残しておこうと思います。
長々となりましたが、まとまりなく書いてしまったので読みづらいと思いますが、これはこれでいいのかなと思います。
最後までお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。