暗黒 上巻 | kanoneimaのブログ

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私的備忘録

書名:暗黒 18世紀、イエズス会とチェコ・バロックの世界 上巻
原題:Temno -- Historický obraz 『暗黒――歴史的情景』
作者:アロイス・イラーセク(チェコ作家)
出版:成文社
内容:ヤン・ネポムツキーの列聖を前にイエズス会(カトリック)による隠れフス派への宗教弾圧が最高潮に達したチェコ。1723年6月、戴冠式のためにカレル六世がプラハに入城した。スカルカの領主アントニーン・ヨゼフ・ムラドタ・ゼ・ソロピスクは、借財であつらえた華麗な衣装と豪華な装飾馬具でこの場に臨み、プラハ城に王を先導する騎乗の五百人のチェコ貴族の一員であった。8月末日、スカルカの領地から支配人であるカレル・ヘンリッヒ・ルホツキー・ゼ・プテニーが領地の産物を届けにプラハへやってきた。齢七十を数えるルホツキーは独り身の没落貴族で、スカルカ付近にあった自身の屋敷は賭博の借金を返すために売り払い、今は親戚であるムラドタ家の領地で暮らしていた。ルホツキーは戴冠式の後、スカルカに戻る準備をした。スカルカの領主の叔母でルホツキーの姪でもあるポレクシナ・リドミラ・ムラドトヴナに頼まれた買物や、領主の高価な馬具と鞍を収めた箱を荷馬車に積み、ルホツキーと同じ頃に帰着できるように前もって送り出した。戴冠式の四日後の9月9日、ルホツキーは馬に乗って家路についた。帰路の途中、フラデツ・クラーロヴェーの近くでイエズス会の神父二人と出会った。貴族出身のマテジョフスキーと釘を打ち付けた靴で有名なフィルムスは、スカルカに異端は居ないかと訊ねてきた。皆カトリックを信仰していますと答えて別れたルホツキーは、馬を進めて先行している下男のあとを追った。黄昏時にルホツキーが館へ帰り着いた時には荷馬車も既に到着しており、彼は皆の出迎えと挨拶を受ける。ルホツキーは翌朝の狩猟を森番ヴァーツラフ・マホヴェツに命じて土産のタバコをやろうという一方で、管理人マチェイ・チェルマークの挨拶にはぞんざいな対応をして館に入った。玄関の間では初老の姪ポレクシナと挨拶を交わしたルホツキーは、運ばれた荷物を開くために部屋に入った。姪を喜ばせたいと様々な土産を持ち帰っていたルホツキーは、福者ヤン・ネポムツキーの小さな像の包みを開け、「これは聖別されているよ」と言った。ポレクシナは喜んで像に口づけした。それからルホツキーは、老嬢に仕える森番の娘ヘレンカにも土産を渡した。リボンと聖別された絵を渡されたヘレンカは、老嬢に促されたので聖ヤンの絵に口づけするふりをした。支配人の態度に腹を立てている管理人チェルマークは熱狂的なカトリックで、自分たちの行う礼拝への参加を断った森番に疑いの目を向けていた。1725年の春、老嬢のために花を探していたヘレンカは、庭の奥のユダヤ人墓地に接した塀のところで行商人ヴォストリーに声をかけられる。右まぶたに疣(いぼ)のある男が同じ信仰の兄弟であると知ったヘレンカは、ひそかに父親に取り次ぐ。夜になるとマホヴェツはユダヤ人墓地でヴォストリーと会い、互いの近況や宗教活動について話し合い、情報を交換する。6月、ヘレンカは母方の祖母の見舞いに行く許可を老嬢から得て、兄トマーシュとともに伯父の家があるメジジーチーへ向かう。実は見舞いというのは口実で、兄妹は同胞同盟の集会に参加することになっていた。夜、森の中で秘かに行われた礼拝で初めて両形色による聖体拝受を受けたヘレンカは感動する。7月、ドブルシュカに宣教団がやって来て、町の広場で説教をした。イエズス会士コニアーシュ神父の説教を聞いたマホヴェツは、自分の信仰を偽っていることを罪だと感じて苦悩する。管理人チェルマークが宣教団に密告したため、スカルカの館に宣教師二人が捜査にやって来る。宣教師が来ると聞いたマホヴェツは亡命を決意し、森に通じる裏門から出て行った。ルホツキーとポレクシナに面会した宣教師たちは、許可を得て森番小屋を家宅捜索した。フィルムス神父とコニアーシュ神父が家探しした結果、床下の隠し場所からフス派の本を発見した。また机の引き出しから森番の残した手紙を見つけた。逃亡した森番に追っ手が手配されたが捕まらず、残された子供たちはイエズス会士たちに尋問される。何も知らなかったと判断された兄妹は、宣教師たちが去ると管理人から別の仕事につくようにと言い渡された。宣教団のドブルシュカ滞在最後の日、没収された異端の本が教会の裏の墓場で焼却された。9月、ポレクシナは異端の子供たちをマホヴェツが連れ去りに来るのではないかと心配し、また子供たちを正しい信仰に連れ戻すことを考える。そこで老嬢の一存で、トマーシュとヘレンカの兄妹は領地の産物を運ぶ荷馬車と一緒にプラハのムラドタ男爵の所へ送られた。隷属民の兄妹がプラハの屋敷に到着すると、ムラドタ男爵は扱いに困り、自分が借金している裕福な市民ブジェジナに売却してしまう。兄妹を買い取ったヨハネス・ブジェジナは葡萄畑と醸造所と酒場を経営しており、トマーシュは葡萄畑で働くことになったが、ヘレンカのほうは仕事がなかった。そのためブジェジナの前妻の母親レルホヴァー夫人の家で女中として働くことになるが……。
※1915年初版
※作者は、1851年にチェコ東北部のフロノフに生まれ、プラハ・カレル大学で歴史を学ぶ。卒業後リトミシュルとプラハのギムナジウムで教師を務めながら歴史小説を執筆してこの分野の第一人者となった。後年病が悪化して筆を断ち、1930年にプラハで没したが、チェコスロヴァキア建国とその後の発展に立ち会った。
※ヤン・ネポムツキー:ヤン・ズ・ネポムク(1340年頃~1393年3月20日)、ヴァーツラフ四世の時代に、プラハ大司教代理としてヴァーツラフと大司教の争いに加わり、そのためヴァーツラフの怒りにふれて拷問にかけられ、カレル橋からヴルタヴァ(モルダウ)川に投げこまれて殺された僧であった。時のローマ法王によって彼は1721年に福者となっていたが1729年に聖人に認定され、プラハでそれを祝う列聖式が盛大に行われた。これはチェコにおける反宗教改革の頂点をなすものであった。
※スカルカ:プラハの東方約130キロメートル。フラデツ地方。ズラティー・ポトクの小川に突き出した丘の岩(skalka)のうえにある砦を、16世紀末にルネサンス様式の館に変え、この建物が本書前半の舞台になっている。
※フラデツ・クラーロヴェー:プラハの東100キロメートルにあるチェコ東部の中心都市。
※両形色:カトリックではミサに際して、キリストの体の象徴として聖体(イーストで発酵させてないパン)を司祭から受けるが、聖書の伝える最後の晩餐では、これがパンと葡萄酒になっている。初期のローマ教会ではパンと葡萄酒で聖体拝受をしていたが、後代では俗人にはパンだけで行うようになった。これに対してフスが存命中の1414年の末ごろから、チェコの神学者ヤコウベク・ゼ・ストシーブラは、パンと葡萄酒の二つの形色で俗人にも聖体拝受をさせ始めた。これが両形色説である。この教義はフスとは直接関係しないが、葡萄酒を入れる聖杯が両形色派のシンボルとなった。
※同胞同盟:イフラヴァの協約(1436年)で両形色派は異端ではなく、カトリックの一員と見なされた後、両形色派が形骸化し堕落していく中で、それを批判しそこから発展したのが同胞同盟であった。
※ドブルシュカ:フラデツ地方オルリツェ山地のふもとの町。フラデツ・クラーロヴェーの東北東25キロメートル。
※隷属民:チェコ(ボヘミア)の農村は1848年の革命期まで領主の司法的・行政的支配に服した。この隷農制下の農村住民は、領主権力に服するものとしての隷農身分にあった(『近代ボヘミア農村と市民社会』)。土地を持たない隷農は賦役を課せられ、さらに結婚、移動、職業選択などに様々な制約を受け、その土地に付属する領主の財産の一部で、売買の対象にもなった。本書のマホヴェツとその一家も森番ではあったが隷属民のため、マホヴェツが逃亡したことは義務違反であり、彼の子供たちも隷属解除契約によって、ムラドタ男爵からブジェジナに売り渡された。
※『訳者まえがき』によると、チェコが独立を失った1648年以降、チェコ人が民族意識に目覚め民族復興運動が始まる1780年代までの時期は、ハプスブルク家の専制とイエズス会による再カトリック化の中で、チェコ語とチェコ民族文化が衰退していった期間であった。このような社会状況の中で無学な大衆に直接働きかけ改宗を迫るため、「明快で分かりやすく、写実的で、情動的」な(R・ウィトカウアー)芸術が生まれ、ヨーロッパでも特異なチェコ・バロックの文化が発達した。という物語の背景がある。
※本書は歴史小説だが筋はフィクション(虚構)である。史実としては、隠れフス派に対する宗教弾圧の中で、1728年にコピドルノで森番のトマーシュ・スヴォボダが偽りの宣誓をした罪で処刑された事件と、1735年にマホヴェツ某という一家が逃亡の理由を書いた手紙を残して国外に逃亡した事が上げられる。この二つの事件に幾つかの変更を加えた上で結びつけ、本作が書かれた。また本書には数多くの歴史的エピソードが挿入されているが、確認が取れるものはほぼ正確に描写されている。

はしばみの鞭:しなやかで丈夫なその枝を束ねて枝鞭にした

食卓に、獣脂ろうそくを灯して

メジジーチー:川の間を意味するこの名前は、各地にある

「主人がフォン(貴族:ドイツ語のvonは貴族の出身地を示す)ならば良いのだけれど。花嫁は貴族の出身(チェコ語のズはvonと同じ)だ」