引き続き、アーティソン美術館で
森村泰昌M式「海の幸」展と同時開催の
『印象派 画家たちの友情物語』を観た。
アーティゾン美術館(旧ブリジブリストン美術館)の
コレクションで何度も観てきたものだけど、
今回は彼らの友情関係に迫って展示された。
19世紀フランスで活動した印象派の画家たちは、
互いに親しく交流していた。
彼らの友情物語を察することができる相関図。
友情関係や師弟関係、夫婦関係などを
含む画家たちの交流を“友情物語”
(展示構成)
「マネ × モリゾ × ゴンザレス」
革新的な作品を制作するエドゥアール・マネ は
印象派の画家たちの尊敬する対象であった。
1868年にマネと出会った
ベルト・モリゾはマネの作品のモデルを多くつとめた。
マネとモリゾは師弟関係というよりも
お互いに影響を与え合った関係。
モリゾはマネの弟と結婚。
マネの正式な弟子となったのは、
エヴァ・ゴンザレス一人だけ。
マネの自画像
ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」1872年
印象派グループの数少ない女性の画家のひとりモリゾ。
女性的な感受性で描かれる母子や子どもなどを
主題とした作品は、男性の視点では
なかなか見ることのできない
繊細さと穏健さを生み出す。
モリゾは、制作当時マネと非常に近い間柄にあり、
この頃は双方の画家の間の影響関係が指摘されており、
この作品にもモダンな主題を革新的な技法で
描いているところにマネの影響が垣間見える。
エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃
ゴンザレスはフランスの画家。
父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって
貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、
母親はベルギー出身の音楽家。
1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じて
マネを紹介され、そのモデルとなり、
次いでその弟子となった。
サロンへの出品を優先したため、
第1回印象派展への出品を断り、
その後も師マネと同様に印象派展
に出品することはなかった。
しかしゴンザレスの絵画様式は、
マネと印象派のそれと近いものであり、
それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられる。
「ドガ × カサット」
ドガはカサットを印象派展に誘った。
エドガー・ドガ 「踊りの稽古場にて」1895-98年
ドガはバレエの主題を油彩とパステルの両方で
手がけているが、踊り子の動作を素早くとらえる上で、
パステルは適した技法であったといえる。
パステルはドガの後半期の画業を代表する技法であり、
その作品は700点以上になる。
メアリー・カサット「日光浴(浴後)」 1901年
カサットは、アメリカ出身の印象派の女性の画家。
1872年にピサロに出会ったことが、
1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになった。
母子像は、カサットが生涯描き続けた主題。
前景には、優雅に横臥する母親と裸の子ども。
その後ろにはラベンダー色の花が見える。
後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子
がとらえられ、明るい色彩や生気溢れる筆触に、
印象派的な要素を見ることができる。
対角線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、
この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されている。
「ピサロ × セザンヌ」
若い頃、セザンヌはピサロとカンヴァスを並べて制作しており、
父のように慕っていた。
カミーユ・ピサロ「ブージヴァルのセーヌ川」1870年
ピサロが生まれ育ったカリブ海を離れて
1855年、パリに出て、パリで本格的に絵の勉強を始めた。
この作品は、印象派の画家として活動する前に
制作されたもので、
バルビゾン派から影響された暗い色調が使われている。
とはいえ、セーヌ川の水面の表現には光への関心も
認められ、その後の画風の展開を予感させる。
ポール・セザンヌ「帽子をかぶった自画像」 1890-94年頃
生涯30点を超える自画像を描いたセザンヌ後期の作品。
ポール・セザンヌ
「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」
1904-06年頃
セザンヌは、目に映る一瞬のきらめきをカンヴァス
に写し取ろうとした。
印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、
永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画
にしようと試みた。
それは相反する性格を
同一画面の中に収めようとする
極めて困難な課題であり、
画家にとって試行錯誤の連続となった。
これを実現させるためにセザンヌは、
印象派の仲間と距離を置いて
孤独に制作する道を選び、
いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによって
この目的を達成することを目指した。
1880年代の後半には、生まれ故郷である
南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側
にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山
の連作を描くようになった。
やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、
鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていった。
「カイユボット × ルノワール」
ルノワールは、カイユボットの遺言執行人として奔走した。
ギュスターヴ・カイユボット「ピアノを弾く若い男」1876年
カイユボットは、印象派の画家。
印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的に支えた。
この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、
カイユボットの弟マルシャルを描いたもの。
1876年の第2回印象派展に《床削り》(オルセー美術館)
とともに出品された6点の作品のうち、
最も批評で取り上げられた1点。
ピエール=オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1907年頃
ピエール=オーギュスト・ルノワール
「カーニュのテラス」1905年
重いリューマチに悩まされた晩年のルノワールは、
南フランスの街カーニュにしばしば滞在した。
1903年から1907年までの間、
彼は、「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれる
建物に部屋を借りて住む。
右端に見えているのがその建物。
その窓からは、カーニュの街並みと果樹園
を眺めることができた。
この作品では、高台に沿って
階段状に延びる家々や果樹園が、
柔らかな筆づかいで表されている。
塀の上に腰掛ける女性は、白い帽子と赤い上着を身につけて
その横には麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見える。
「ゴッホ × ゴーガン」
ゴッホの作品は随所で観たので、ここではゴーガンを記録したい。
ポール・ゴーガン 「馬の頭部のある静物」1886年
ゴーガンとしては珍しい新印象主義的技法、
点描によって描かれた静物画。
三つ折れ人形を思わせる東洋的な玩具、
馬の頭部の古代彫像、
浮世絵を貼り合わせた団扇に書籍。
なんとも奇妙な組み合わせの静物が、
規則正しい斑点をもって描かれている。
人形や団扇は当時の日本美術愛好の流行により
パリにもたらされたもの、と思われる。
ゴーガンは、やがて、日本美術の影響を受けて、
本格的にその技法を学び、
平面的な単純化を目指す表現によって
新たな様式を確立することになる。
この作品はゴーガンの日本美術へ関心の
端緒を開いたものといえる。
「ブラックモン夫妻」
マリー・ブラックモン「セーヴルのテラスにて」1880年
マリー・ブラックモンは印象派の女性の画家。
夫フェリックスを通じて印象派の画家たちを知った。
この作品は1880年の印象派展に出品した
同タイトルの作品(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)
と同時期に制作された。
モネやルノワールの絵画に学び、
光による微妙な色調の変化をとらえた、
印象派らしい描法となっている。
「モネ × シスレー × シニャック」
アーティゾン美術館には、
クロード・モネの作品は8点あるうち、
今回は7点が展示されていた。
クロード・モネ「アルジャントゥイユの洪水」1872-73年
印象派の風景画家モネは、1871年から1878年までの間、
パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、
すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描いた。
この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。
奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、
この地域が近代化されていることがわかる。
1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水
でセーヌ川が増水し、
アルジャントゥイユは洪水に見舞われた。
木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになった。
川の上を鳥が舞うことで、
暗い色彩で描かれた
この作品の緊迫感や動感が増幅される。
クロード・モネ 「雨のベリール」1886年
フランスのブルターニュ地方は
多くの画家に愛された土地だった。
モネが一時期滞在したのは、
ブルターニュ半島の南にある
「美しい島」という意味の小さな島ベリール。
モネは1886年9月から11月末までこの島にとどまり、
滞在中に46歳の誕生日を迎えた。
モネがベリールを描いた油彩画は現在40点ほど知られている。
この作品の中央には、
ポール=ドモワ湾の中央に位置する
「ギベル」と呼ばれる岩が見えている。
遠くの岩は雨でかすんでいる。
横なぐりの雨は斜め向きのタッチで表現され、
海の白い波は曲線で表されている。
粗々しい水面の表現が印象的な作品。
アルフレッド・シスレー「森へ行く女たち」1866年
1865年7月からパリでアトリエを共有してい
たシスレーとルノワールは
翌66年2月、友人で画家のジュール・ル・クールと3人で
マルロット村に滞在して、制作を行った。
この作品に描かれているのは、村に暮らす人々。
道の両側には石造りの家が並ぶ。
季節は晩秋。
中央の3人の女性は、
冬の間に燃やす薪を拾いに
森へ出かけようとしている。
暗い色調の作品だが、
明暗の対比が効果的に使われており、
日差しを浴びた前景は明るくなっている。
この作品でシスレーは
1866年のサロンに初入選を果たした
アルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」1884年
印象派の風景画家シスレーは、
1860年代にパリ南東約60km のところにある
フォンテーヌブローの森で写生を行った。
フォンテーヌブローの森、
今も変わらぬ、この景色は残っている。
ポール・シニャック 「コンカルノー港」1925年
コンカルノーは、フランス西部のブルターニュ地方の港町。
1891年の夏、シニャックは愛用のヨットに乗って
コンカルノー港からコート・ダジュール
のサン=トロペへ向けて船出したことがあった。
その後、シニャックはフランスの港町を訪れて
水彩による旅日記を残した。
この作品は1925年に再訪した際に描かれた油彩画。
スーラとともに新印象主義を完成させた
シニャックは、後年、点描の色点から方形の
モザイク風小片の筆触へ描法を変化させ、
この作品では青、ピンク、オレンジ、黄色の淡い色彩で
装飾的な画面をつくり上げている。
印象派の画家たちの交友関係という視点で開かれた、
リピート鑑賞したくなる展覧会だった。
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