八戸駅から盛岡駅に途中下車した。
この駅を降りたのは初めてだった。
いつもは東京から車で行っていたから。
母方の親類も岩手県にあるが、
明治維新前は同じ南部藩の領土内にあったが、
維新後の廃藩置県で、南部藩の領土は
東山魁夷の絵画 「緑の詩 The Poem of Green」
盛岡の徒歩1分のホテルに
アーリー・チェックインしてから市内を1周してくれる
「でんでんむし」バスに乗った。
何回乗っても乗り降り自由の300円の券を買う。
このバスに乗って、まず「盛岡城址」で下りた。
盛岡城跡公園は、
青森県三戸から不来方(こずかた)に居城の移転し、
江戸時代、南部藩の城下町とし栄えた所を公園とした。
第42代南部家南部利祥の銅像の台座のみ残っていた。
利祥の栄誉を後世に残すため旧盛岡藩士らによって、
明治41年(1908年)岩手公園に利祥の銅像が建立されたが、
銅像は太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に金属供出によって
撤去された。戦争の傷跡である。
(南部利祥)、第42代南部家当主・
明治23年、学習院初等科三年生のとき、
皇太子(大正天皇)のご学友に選抜される。
教育係の東條英教(東條英機の父)の勧めにより陸軍に仕官し、明治35年(1902年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、明治36年(1903年)6月に陸軍騎兵少尉に任じられる。同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。
明治37年(1904年)、日露戦争が勃発し利祥は
満州の最前線で活動した。
翌明治38年(1905年)2月に中尉に進級し、
近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、
最前線で指揮を執ったが、
3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死。享年23。
二ノ丸から本丸に向かう場所になる渡雲橋(太鼓橋)。
モミジの頃はバックの紅葉と橋の赤い色とグレーの石垣
で美しさが生えそうだ。
石川啄木の歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」
啄木
少年時代の啄木が学校の窓から逃げ出してきて、
文学書、哲学書を読み、白日の夢を結んだのが盛岡城二の丸。
歌碑の文字は恩友 金田一京助の書。