失われたはずのTの肉声 | Tへ

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ブラックタイガーに濯ぐ .◦☆* 。*◦*~♪

昨日の朝、出かけようと玄関へ行くと

ドアノブが汚れていた。


「何これ。」


振り返ってTを見る。

確か手と足から血が出ていた。

昨夜また深夜に出かけたらしい。

その時にふらついて玄関で転んだ様子だった。

ドアノブをふきながらTに小言を言ってしまう。

病気をしてから身体のバランスが悪く転んだり

階段から落ちたり

最悪だったのは車ごと川へ転落した事。

大人なのにヤンチャ過ぎて心配ばかりかけられて疲れてしまった。

出かける直前に言いすぎると本人の運転が荒くなる恐れもあり

サラリと言って口を閉じた。

一緒に病院へ行って病院の一室で

声を出す練習をしに行く。

この教室では、ほとんどの方がTより年上だった。

声帯を全摘出して彼と同じ様に喉元に永久気管孔が開いている。

失った声を出すためには口に空気を含み途中まで飲み込み

ゲップをする瞬間に食道を震わせて口から声を出す。

これが食道発声法と言われる。

Tは、そのコツが未だにつかめず

また小腸で食道の一部まで再建しているので

中々難しい様子だった。

なので電気式喉頭を喉に当てて口を動かすだけで

電子音の声を出す練習をしている。

ただ当てる場所がシックリこないと

雑音だけで声にはならない。

私も借りてやってみたけれどかなり難しい。

毎回、練習用の用紙がくばられて

それをしっかり発音できるように何度も何度も繰り返す。

ベテランの先輩達はハッキリと話せるので

違和感なく会話が出来る。

食道発声法のベテランさんは仕事で電話対応も出来ると言っていた。

声帯がないのに食道を使って話せるなんて凄いなと驚いた。

今回は会長さんやベテランさんの3人から

教えていただいた。

Tも熱心に電気式喉頭で練習をしていたが

疲れないように周囲の方が気遣ってくださり

途中雑談したりして休み休み練習する。

前回注文した笛式人工喉頭を2種類見せて頂いて

2つとも欲しいと言うので購入した。

これは口にゴムパイプをくわえて

そこからチューブでつながる先の皿を

息を吸った瞬時に永久気管孔にかぶせて

口中に戻った息を吐きながら口を動かすだけで

明瞭な声が出る仕組みになっている。

会議など大声を出す時に使用出来て発声音も大きい。

ただ、これを使用するにも練習が必要だった。

受け取った笛式人工喉頭を開けて

Tが口にくわえて実践してみたら

コツが分からずスースーと息が漏れるだけだった。

会長さんが丁寧にやり方を説明してくれる。

気管孔から息を吸って皿をかぶせて

息を吐きながら口を動かすと肉声に近い声が出る。

最初は戸惑い皿の当て方が ずれて上手く行かず

鏡を見ながらやってみたら


「あーいーうーえーおー」


とても大きな声が出た。

向こうで休憩して雑談している皆がシーンとなってTを見た。

その瞬間、わたしは目が潤んで笑ってしまった。

Tの声ってこんなに甲高い声だったのかな。

しかもマイクをつけたかのように大きな声が出る。

ただ声が会長さんとは違って子供のような声で可愛い。

次は気管孔に皿だけ当ててチューブを口から抜いて

肺から息を吹き出す練習をした。

肺活量があるから長く息を吐き出せる。

そしてその間、ウーっという音が出る。

凄い。

それまで大人しく声も出ずに奮闘していたのに

いきなり大声を出したものだから

皆が目を点にしたような表情で驚いている様子だった。

そして私も驚いた。

練習は2時間だけれど

1時間以上も経過すると皆、疲れて

各々の話し方で雑談している。

そんな中

笛式人工喉頭が気に入ってしまったのか

Tはずっとやっている。

むこうでは雑談している中ひとり


「おはよぉおおございまぁすー」


「ありがとぉおございましたぁ」


「ごちそうさまでしたぁー」


と甲高い大声で言っているので

可笑しくて笑いをこらえるのに必死だった。

他の方の会話を遮るほどの大きな声だった。

これが本当のTの肉声に近い声だとしたら

彼の声のトーンはすごく高い。

歌も歌えそう。


「いただきまぁーす」


なんだか可笑しくて肩が震える。

もう笑わせないで。

涙が出そう。

2種類購入したけれど素材によって声質が

がらりと変わるらしい。

まだ、もう一つの方は試していないけれど

すごく楽しみになる。

慣れたらアルミニウム製のものも購入しようと思う。

帰り際に会長さんから

もっと話せるようになると言われた。

なんだかとっても嬉しくて晴れ晴れとした気持になる。

Tがメモ帳を私に見せる。

食堂で昼飯、食べていこう。

そう書かれていた。

ここの病院のカレーライスが絶品だったのを思い出す。

いつもいつも食べたいと思いながら

難しくて諦めていたけれど

Tは食べられるようになってきたから

そう言ってくれたみたい。

彼の車椅子を押して食堂へ向かう

食券機を見たら

もう午後なので

お目当ての御馳走は完売だった。


「また今度にしよう。」


そう言ってUターンして駐車場へ向かう。

いつもズッシリと重く感じる彼の座った車椅子が

なぜか軽やかに進む様な気分だった。

外に出るとキンモクセイの甘い香りが鼻をかすめる。

そう言えばベテランの方が

最近、香りが解るようになってきたと言っていたっけ。

本来は口と鼻からの呼吸をしていないので

匂いが解らないはずだけれど

発声の訓練を続けていたらキンモクセイの香りが

解るようになったらしい。

人間の身体は機能する部位を失っても

他の部位で代用出来ることもある。

その可能性の偉大さに驚かされる。

声帯がなくてもいつかたくさん話せるように

彼の心の闇に光が射してくる事を願いたい。