最終話 約束よ その7
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小鳥のさえずりと眩しい日差しが部屋に差し込み、朝の訪れを教えてくれる。
ついにこの日が来た…と才加は目を覚ましたと同時に思う。
昨日は眠れなかった。明日なんて来なければいいのにと何度も考えた。
だけど時間は残酷にもいつもと同じ様に流れていく。
寝ぼけたまま頭を上げた才加は、同時に体の節々に走った痛みに気付いた。
よく見るとベッドに頭と腕だけを預け、床の上に座り込んだまま眠ったせいで寝違えてしまったようだ。
目の前にはベッドに横たわりスヤスヤと寝息を立てている天使の寝顔。
本当に今日、彼女は消えてしまうのだろうか?
この2、3日は長い夢だったのではないか?
そう疑いたくなるほど彼女の顔は安らかなものだった。
これなら天国に帰ってくれた方がまだ良かった。消滅するなんてそんな話、聞いてない。
もう会える事のないその姿を目に焼き付けるように見つめると、身をよじって寝返りをうつ彼女。
涙が出そうになるのを堪えながら時計を見る。
ちょうど今日は日曜日。
夏期講習もないし、一日彼女と一緒にいられるだろう。
そんなことを考えていると唸るような声が聞こえ、薄っすらとその目を開けた天使。
目が合うと寝起きのトロンとした瞳を細め、へにゃりと笑った。
「おはよう。」
まるでいつもと同じ様に挨拶をするその姿に声を掛けることができない。
今日が最後だなんて、微塵も感じさせないその表情。
それが何となく悔しくて、その少し丸い鼻をギュッと摘まんだ。
「ぎゃん!いだいよぉ。」
非難するような声をあげているくせに、楽しそうに笑っている天使。
そんな彼女の姿に思わず微笑んでしまう。
「おかろぉー、やめてやめてぇー」
「すげぇ鼻声ー…ってあれ?」
「ふあー?」
「お前、鼻の穴曲がってる!」
「えええええ!?」
腹を抱えて爆笑する才加と「やだー!」と鼻を手で隠しているサエ。
楽しそうに話す彼らを他所に、残酷に時計の針は進む。
止めることの出来ない時間の流れに気付かないふりをする2人は、それでも笑い合う。
部屋に木霊する針の音を無視するかのように。
***
少し遅い昼食を食べている才加に、サエは「時間が欲しい」と伝えてからもう一度2階へと上がった。
これまで自分の居場所のように使用していた彼の部屋。
その隣に面している親友の部屋の前で立ち止まる。
ノックをしてから入ると、ベッドにゴロリと寝転がった香菜の姿。
「サエー?どうしたの?」
「香菜…。」
サエは部屋に入ると彼女の隣に腰掛けた。
香菜は起き上がってそんな彼女に向かい合う。
「あの人形ありがとう!」
「あ、うん。サエ、ああいうの好きでしょ?さっそく昨日カバンに付けてたし。」
「うん!すごい嬉しかった!超かわいい、あれ!」
「うわー、やっぱ香菜様センス良い!」
自分で言うなー!と突っ込んでいるサエと楽しそうにケラケラ笑う香菜。
彼女といるといつもこんな感じ。
同世代のように、年相応に楽しんではしゃげる彼女の存在は大きかった。
たくさんのことを教えてくれた。自分を好きと言ってくれた。
そんな彼女の頭を撫でながらサエは優しく微笑む。
「香菜はおバカだけどさー」
「え?マジいきなりなんなの?」
「本当はおバカじゃないよね。」
「あったりまえじゃん!」
「いや、これ絶対会話噛み合ってない!」
きっと違うニュアンスでお互いに会話しているその内容に、サエは頭を抱えた。
「とにかく!何が言いたいかと言うと!」
「うん。」
「色々ありがとね。」
「…え?どうした?」
「まぁそういう事だ。」
「は?え?なになに?」
「だって香菜に真剣な話しても絶対伝わんないんだもん!」
「なにそれー!酷くない!?」
やかましい彼女の手を握り目を瞑ると、ようやく何かを察した香菜はサエの様子を見ながら黙り込んだ。
暖かな熱が、握られた手から流れ込んでくる事にも気付かずに。
「大家君と仲良くね。」
「は?なんであいつと!」
「もー!そんな言い方かわいそうでしょ!」
「いーの、別に!」
「あと家族も大切にね?友達も。香菜は表情作るのが苦手だから勘違いされる事もあるけど、たっくさん頑張ってるもんね?」
「…サエ?」
「香菜、ありがとう。」
サエは彼女の手を離すとベッドから立ち上がり、手を振りながらその部屋を後にした。
階段を下りて今度はリビングへ。
扉を開けるとソファーの上でくつろぎながらテレビを見ているここの大黒柱。
今日は午後出勤だと言っていたのを思い出しながら、サエは彼女の元へと足を進めた。
「めーたん!」
「あら、サエちゃん。どうしたのぉ?」
隣に腰掛けた天使に向き合うように体勢を変えた彼女は、ニッコリと笑いながら天使の頭を撫でる。
「えーと、あのね…」
「うん。」
「色々、ありがとう。」
その言葉を聞いためーたんは、少し悲しげに眉毛を下げた。
「…帰っちゃうのね?」
「…。」
「寂しいわぁ…。でもしょうがないわよね?」
「めーたんのおそうめん、とっても美味しかったよ。こんなサエを本当の娘みたいに愛してくれてありがとう。」
そう言ったサエに彼女は少し険しい表情を浮かべながら人差し指を立てた。
「サエちゃん、『こんな』なんて使っちゃダメよ?サエちゃんは愛されるために生まれてきたんだから。」
「…愛されるために?」
「そうよ。この世に生を受けた者は全てそうなの。私達は巡り合った人達に、愛される意味を教えられるために、愛される意味を知るために生まれるのよ。天使だとしてもそれは同じこと。」
「…。」
「だからね、『こんなサエ』なんて言わないで?貴方はちゃんと愛される資格を持っているんだから。」
そう言いながらニッコリ笑っためーたんは人差し指で宙にハートを描いた後、その指でサエの頬をつついた。
それからぎゅうっと強く抱きしめられ、体に触れた温もりが心地よくて離れたくなくなってしまう。
人の暖かさ。思いやり。深い愛情。
母親とはこういうものなのか。
何もかも優しく包んでくれる存在。
涙を堪え彼女の背中に腕を回したサエは、彼女へ幸せを分け与えようと力を込める。
「めーたん、幸せになってね。」
ポツリと呟いた天使のその暖かい手に涙を流しためーたんは、何度も彼女の頭を撫で続けた。
この一家と離れたくないと思ってしまう自分を押し殺し、めーたんと別れたサエはチラリと時計を見た。
もうこんな時間。
一つ深呼吸をした天使は、震える手を押さえつけて玄関へと向かった。
***
太陽が天高く登る。
きっと今が一番暑い時間帯だろうと、家の中で優子は思う。
自分以外に誰もいない一軒家に閉じ込められてしまったような感覚。
ふう…とため息をつきながら、そろそろ勉強するかと立ち上がったその時。
ピンポンとチャイム音が家中に響いた。
急いで玄関へと向かうとそこには見慣れた人物の姿。
隣に居候している女の子。
ただの女の子ではない。彼女は天使というとても特殊な存在。
突然の訪問に驚きながらも声を掛けると、天使は真剣な表情を崩さずに優子を見つめ続ける。
「…話があって…。」
そう告げた彼女は、そのままそこに立ち尽くしてしまった。
彼女が口を開くまで待とうと決意した優子は、ジッと天使を見つめる。
すると暫らくしてから静寂を破る凛とした声が玄関に響いた。
「あの時はごめんなさい。」
「…。」
「ずっと心の中でモヤモヤしてて…優子は優しいから、気にせずサエに話しかけてくれたけど…やっぱり謝りたくて。」
天使は思いつめたような顔でクシャリと自分の前髪を握り締めた。
優子は何も言わずに彼女の言葉に耳を傾けている。
「サエ、あの時…何にも考えられなくて…優子がオカロの事好きって言った時ね…」
「…。」
「…っ…、いっ、嫌だなぁって…思ったの…。」
そう告げたサエは俯き、自分の足元を見ながらあの日の放課後の事を思い出していた。
優子に問い詰められた時の心情も、彼女に言わなくてはいけないと思ったのだ。
彼女には、自分の全てを知ってほしい。
「優子が…優子の事が大好きなのに…そんな気持ちになる自分が嫌でっ…」
「…。」
「それで、逃げちゃったの…ごめんなさい。」
頭を深く下げたサエを見つめながら優子は暫く黙りこくっていたが、不意にサエの肩へと手を伸ばしポンポンと励ますように叩いた。
「…サエちゃん。」
「…。」
「素直に教えてくれて、ありがとう。」
顔を上げると、大きな瞳を濡らし涙を流している優子の姿。
それを見たサエは、これまで我慢していた涙を抑えきれず両目一杯に溢れさせた。
「優子、ごめんねっ…ごめん。」
「私も辛かった…サエちゃんとちゃんと心から楽しんで話せない事…ずっとモヤモヤしてて、あんな事言わなきゃ良かったって…」
サエは小さな彼女を強く抱きしめながら、ここ数日間ずっと我慢していた涙も一緒に溢れさせている。
そんな天使に語りかけるように話し出す優子。
「サエちゃん、それは普通のことなんだよ?才加が好きなら、思って当然のことなの。」
「そうなの?」
「そう。」
「どっちも大切なのに?」
「しょうがない時もあるの!」
「うー…変なの。やっぱサエ、恋愛ってよくわかんない。」
「あれ?恋だって気付いてたの?」
「うん、最近。」
「最近かよ。」
笑い合う彼女たちにはもうわだかまりなんて物はなく、以前よりも深い絆で結ばれたとお互いに感じている。
優子はサエの腕の中、小さな声で囁いた。
「…天国帰っちゃうの?」
「…。」
「やっぱり。なんか態度が変だったもん。」
「うー…そっか。変だったか。」
「…やだな。」
「そんなこと言うなよぉ!」
「だって本当なんだもん。離れるのが嫌。」
優子はサエの腕から離れ、その顔を見上げながら訴えるような眼差しを向けた。
「サエちゃんは私にとってすごく大切な存在なんだよ?こんなにお互いのことわかってて、一緒にふざけあえる人なんてあんまりいないもん。」
「優子…。」
「こうやって変な感じになっちゃったとしても…それでも関係は変わらないって信じられるし、サエちゃんがいるから一人じゃないって思った事もあったよ。」
「…。」
「サエちゃんがいること、心の支えだった…。だから、離れたくないよ。」
優子の言葉一つ一つが、天使の胸を打つ。
大粒の涙を零しながら再び彼女を抱きしめたサエは、この時間を惜しむように優子の頭を撫でた。
「時々、遊びに来てね?」
「…うん。」
「サエちゃんはもう私の心の友だからな。」
「心の友?」
「うん、しんゆう!心の友って書いて心友。」
そう言いながら笑う優子の言葉に嬉し涙を流したサエは、彼女の手を握り幸せを願う。
彼女がそばにいるだけで安心できた。彼女の姿を見て、自分を見つめ直した。
人間と天使。
その存在意義も生まれた環境も場所も違う2人。
一緒に過ごし泣いたり笑ったりする内に、友達以上の支えになっていたのだと、サエは優子の顔を見つめ実感する。
いつまでも一緒にいたい気持ちを抑えて彼女と別れを告げ、玄関を後にした。
外に出たサエは天を仰ぎながらその青く透き通った大空を見上げる。
雨が降らなくてよかった、と心の中でふと思う。
もう思い残すことはない。
後はその時が来るのを待つだけ。
天使はそのまま正面に視線を戻し、秋元家へとまっすぐ進む。
大好きな彼に、最後のお願いを聞いてもらうために自分の帰る場所であったその家へと急いだ。
いつまでも一緒にいたい気持ちを抑えて彼女と別れを告げ、玄関を後にした。
外に出たサエは天を仰ぎながらその青く透き通った大空を見上げる。
雨が降らなくてよかった、と心の中でふと思う。
もう思い残すことはない。
後はその時が来るのを待つだけ。
天使はそのまま正面に視線を戻し、秋元家へとまっすぐ進む。
大好きな彼に、最後のお願いを聞いてもらうために自分の帰る場所であったその家へと急いだ。