実体験をもって確信 | 思考型、思考過多、雑多で雑

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雑人間の思考。
ただの日記。
うちの会社は副業禁止。

ふと、数年前に願ったことは叶ってるなあ、と思った。
それは大それたことじゃなく、
毎日楽しく笑って暮らしたい、
家人の支配からの脱却、自由、
それだけだった。心底。

そしていつのまにかそれは叶った。
毎日楽しく笑って暮らせている。
支配で苦しくて、○○でくれと何度も思ったのもなくなった。

よく「強く願いすぎると執着になり、逆に今にそれが”ない状態”を刻み込んでしまう」

というようなことを言われるが、
私は強く願った。本気で。
このままじゃいたくない、冗談じゃない、と思った。
支配のない生活を思い浮かべるような、理想の想像じゃなく、
絶・対・い・や・だ!!!と強く思った。
そしてそれは叶った。
これはどう説明を付けられるのだろうか。

思うにこれは微妙かもしれないが、今の状態を激しく拒絶したことは、
今の状態を肯定してなかったと同時に、

その状態を消し去ろうとしたエネルギーのほうが大きかった、ということかと。
これが、抜け出ることができない執着になる場合、
願うと同時にその逆の「でも今はこうだ」という現実肯定の意識が強くなっているのではないかと。
もしくは「今はこうなのに、ほんとに願ってそうなるのかな」という疑問を潜在的に無意識下で持っていたり、とか。

私は現実をかけらも肯定してなかった。
疑問のエネルギーも持っていなかった。
ただ、200%全力で、このままじゃ絶対いやだ!と拒絶した。
そのエネルギーがとにかく大きかった、ということではないかと。

加えて言うなら、
現実を変えるために今の状態に対抗する覚悟を持った。
怖くて縮こまっていた自分を、「このままでいいわけないよね」と鼓舞して。
そして、できる範囲の小さなことを行動に移した。

その最初のひと漕ぎはおそらく、
小さくても一番自分に負荷がかかることではあると思う。
でもそれをするとしないとでは、そのあとの展開がまるで違う。
 

今思えば、「覚悟を決める」ことと「実際に行動する」ことで現実は変わるんだなと、
線路の切り替えポイントがそれであると納得がいく。
(「覚悟」には”願い”という、思いや意志のエネルギーを強くして決定するのも含まれる)

小さな一歩を踏み出すかどうか、ピタゴラスイッチの最初のビー玉のごとく。
「覚悟と行動」、

結局”それだけ”なんだわ。

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別の面から言うと、

私が「いなくなればいい」と思っていたからこそ、

そういう相手は、目の前に”居続ける”という説がある。

「いなくなればいいと思う相手」という設定を”し続けている”、ということになるから。

この場合、私が設定を変えなくてはいけないはずなんだが、
これを変えた記憶が、ない。

忘れてしまっただけなのか、なんなのか、

とにかく、今はない。

 

ただただ、その「状況」だけを何とかしたかった。

だから、相手にフォーカスしてなかったのかもしれない。

相手がいなくなることも、相手に変わってほしいと思うことも、頭になかった。

ただ「この状況が終わる、変わる」という一点に、エネルギーが集中してたように思う。

 

もし「相手がいなくなる、相手に変わってほしい」というのをそこに入れていたら、

「どうやっていなくなるのか、どう変わるのか」というストーリーを

どうしても思い浮かべてしまっていたかもしれない。
私にとっては、それは余計なことで、

それがなかったからこそ、一点集中できてたのかもしれない。
そして場面が転換するように、気付いたら違う状況に移っていた。

(三次元的には移行期間があったはずだが、今はもう記憶がない)

 

とにかく、自分を一番に大事にしたいと思った。
自分を押し殺して我慢して、いつまでいるのかと、ある時思った。

このままでいいわけない、私はもっと自由で生きたいように生きていいはずだ、と。

もう、いつだったか忘れたけど。

でも、決めてもすぐには動けない。

そういうのと「怖い」を繰り返し、いよいよ「覚悟を決めた」。

そこから私のビー玉は転がり始めて、場面転換し、今に至る。

 

振り返ると改めて、変わり様に驚いている。

でも、モノゴトって変わるんだなあと実体験をもって確信している。

だから今、抜け出せないことがある人も、大丈夫。

というか、大丈夫って自分に言ってあげて欲しいなあ。