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湖南省で日本語教師

湖南省の某所で日本語教師をやってます。専攻は中国語で、まだまだペーペーですが頑張ってます。

 

~帰国~

 

 暖冬の201324日、僕は帰国した。その2日前に、生まれて初めて海外で誕生日を過ごした。ここ数年は誕生日に特別なことは何もしていない。誕生日とか記念日や、こういった言葉の定義で、自分の計画を左右させてはいけないと思ってる。老いや死は確実に迫っているし、「自分がこの世界のために何ができるのか?」っていうことを常に念頭に置いているから、誕生日を祝うよりも、もっと他に大切なことがあると思っている。27歳、僕はあと何年生きて、あと何ができるんだろうっていつも考えている。“我不想当作这个世界的小角色”、日本語で「この世界の小役になりたくない」っていう意味だけど、これは、酔っ払うたびに中国の友人に言っている言葉だ。広い視点から見て、いてもいなくてもいい存在になんかなりたくない。

 

 

 

 今回は1週間だけの帰国だった。なんで1週間かっていうと、飛行機のチケットが買えたのがこの日程だけだったのと、あとは日本にいると、あの透き通るような青い空を魂が解放された気分になるので(笑)、解放しすぎると、逆に中国に戻るのがすごく辛くなりそうだったからだ。どうせ7月には大学を辞めて帰国するし、それから充分日本を満喫できるから、今はできるだけ中国湖南省の小汚い空気と、理不尽までに辛い料理に触れていたいと思う(笑)。あと1学期、全力で頑張ろう。

 

 それにしても日本の料理は美味い。2012年は365日中、360日は中華っていうほど中華料理を食した。中華料理は、主に油を使った料理なので、。日本では「今日はイタリアンで、明日は中華にしようか」っていう会話は、長沙では「今日は東北料理で、明日は四川料理にしようか」となる。選択肢はほとんど中華料理しかない。ちなみに、日本で中国人の友達と、池袋にある本場の中華料理を食べたけど、いったいどういうわけか、中国で食べたのよりずっと美味だった(笑)材料の質が違うのかな。

 

 滞在期間中、日本語を使ってとにかく喋りまくった。今回日本を離れた時間は一番長かったし、日本語を長く使ってなかったせいもあると思うけど、両親や親戚、友人、大切な人たちに会えて、嬉しくて仕方がなかったんだと思う。久しぶりに会った親戚の前でずっと喋り倒した時は、みんな目を丸くして、口々に「神野さんの息子さんは一体誰に似たんですか?」と両親に聞いていた。一方の両親は、ずっと首をかしげていたけど、どこか嬉しそうだったので安心した。

 

 

 

~意識の変化~

 

~社会に目を向ける~

 

 そんな身の上話もそこそこに、本題に入りたい。中国に1年半滞在して、自分の中で大きな変化があった。以前は言語にしか興味がなかったけど、今は日本と中国の社会にも目を向けるようになった。きっかけは、中国語のリスニングや発音練習教材に、ニュース番組や有名な人のスピーチを使うようになったからだと思う。そう、僕は社会にも興味を持つようになった。そんな社会にも目を向けるようになった人間が日本と中国の違いについて書いてみたい。

 


①日本と中国の権利と利益の在り方について

 

 日本に帰る機内の座席にあった雑誌の裏に、乗客への注意をよびかける漫画が描いてあった。乗客である漫画の主人公が、飛行機が遅延したことを不満に、他の乗客たちとともに、滑走路で訴えを起こすというものだった。(ちなみに、良心を演じる役としてヒロインがいる。)枠外に、「飛行機の滑走を邪魔する行為はご遠慮ください」とい書いてある。そして結末は、全員逮捕で幕を閉じる。

 

中国人は民度が低いと思う日本人は少なからずいると思う。この話を聞いて、みなはどういう感想を持つだろうか。民度が低いと思うかもしれない。じゃあ、民度が低いのは一体誰のせいなのか考えなくてはいけない。これはまさしく、「国民たちに真っ当な権利と利益を与えていない中国政府のせい」なのだ。さきの漫画に書いてあったことは、とても冗談だとも思えないし、中国人が野蛮だとも思えない。なぜなら中国では、「自分から主張しなければ、いいようにやられてしまうから」だ。何か行動に移す際に、「誰かに見られているかを気にする日本人」と、「なんとかして権利と利益を得ようとする」中国人。

 

「国が真っ当な権利と利益を国民に与えていない」という代表的な例には、中国の医療問題のことを挙げずにはいられない。中国では、医療費は全額患者の負担で、その額は、かなりの高額だ。ドラマの中で、登場人物が事故などにあうシーンがよくある。その家族や身内たちは、まず患者の安否を気遣い、その次に財布の中身を気遣う。さらに病院に連れていかれても、助かるとは限らない。高額の医療費を払って、もし治らないようならば、医者は半殺しにされるか、患者やその家族は“医闹”という一種の圧力団体に依頼し、多額の賠償金を要求するだろう。僕が中国の好きになれないところは、医療、行政など命に関わる機関がまだ国民の安全を充分に保証する段階にまで達していないことだ。

 

 

 

②日本に潜む「目に見えない目」

 

日本はいつも誰かに見られているようで、とても息苦しい(この台詞を地獄のミサワの絵柄に当てはめるとウザさが100倍になる。)息苦しく感じる原因、それは「目に見えない目だ」。中国でも日本でも社会の目を全く気にせず生きている人はいないと思う。人は常に誰かに見られながら生きていると言っても決して言い過ぎじゃない。日本と中国の社会の違いを挙げるなら、中国は「目に見える目」が、日本には「目に見えない目」がある。中国人は他人のプライバシーに対して、非常にオープンだ。どれくらいオープンかっていうと、個人のプライバシーなんかお構いなしになるときがある。ものすごく印象に残っているエピソードを1つ紹介したい。僕が健康診断にひっかかり、大きな病院の再検査に行ったときのことだ。受け付けを済ませ、待合室で順番を待ち、名前を呼ばれ医師のいる問診室に入った。問診室のドアが開けっ放しの時から嫌な予感がしていた。中に入ると、医師を取り囲むように、人が何人もいた。最初は「大家族で来たのかな?」と思ったけど、あとあとそのほとんどが他人だと知った。そう、この病院では「問診時は他者の入室OK」なのだ。日本人の思考回路なら、「他人のプライバシー → 不干渉」なのだろうけど、中国人なら「みんな病人 → わかちあおう」なのだ。僕が椅子に座ると、背後から感じる目線・・・・。少なくとも5人はいたと思う。外国人だとわかると尚更興味深々だ。でも僕は不思議と嫌な感じはしなかった。

 

帰りに、入院棟を覗いてみたけれど、はっきり言って環境は劣悪だった。病院であってはならない不衛生さが一面に立ち込めていた。

 

 

 

③なんのためのルールなのか?

 

 中学時代は学ランを着ていた。「第1ボタンまで締めなさい」と校則で決まっていた。わけもわからず従っていたが、いま思うと「なんでだろう?」と思うようになった。学ランの詰襟ホックとか、当時肥満児であった僕には邪魔以外の何物でもなかった。

 

通学中、自転車に乗るときはヘルメットをかぶりなさいと言われた。これは納得できる。もし 万が一、交通事故に遭ったら、ヘルメットがあるのとないのとでは、結果は大きく異なるだろう。日本人が秩序を守るのも、このような社会の隅々にまで存在するルールのおかげだと信じている。それはそれで素晴らしいんだけど、「極端から極端に走る」のが日本人の癖で、「ここまでやる必要あるの?」って思うときだってある。あれは、僕がホテルの研修に出た時のことだ。係の支配人に、「セルフレーム製のメガネは禁止です」と言われた。ここまでくるともうなんのためのルールなんだかはわからない。過去にセルフレームメガネで気分を害された客でもいるんだろかとと、少々阿呆なほうに思考が働いてしまった。「明確な目的に基づいた、融通の効くルールの設定」。僕が求めるルールの形とはだいたいこんな感じ。こんな空間を求めている人は少なくともいるんじゃないかと信じてやまない。ルールで自分たちを縛り付けて、「沈黙は金なり」という国民性が重なり、自殺という手段を選ぶ人が少なくない。反町隆史のPoisonなんて、まさに日本を代表する歌だと思っている。(歌唱力じゃなくて、歌詞の内容がね。)

 

 ドラマを見てても、「空気を読め」っていう言葉は日本のドラマに頻繁に出てくるけど、中国のドラマには出てこない気がする。昔、反町隆史の歌に、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~」ってフレーズもあったけど、これはまさに日本の社会を象徴していると思う。

 

中国人が自分の国の指導者や政府を批判することは、女性に「最近太りましたね」と言うくらい勇気がいる(ちょっと違うか・・・)。最近のことだけど、とある中国人の歴史の先生が、毛沢東を「中国で最も罪のある売国奴」と批判をしたところ、ある日突然姿を消してしまった。粛清されてしまったのだ。幸い無事に帰ってきたものの、以前のような威勢と覇気は失せてしまった。恐らく想像を絶するくらいこってり絞られたに違いない。

 

 

 

④サービス至上主義に見えた矛盾

 

日本はサービス大国だ。「お客様は神様です」「お客様至上主義」「行き過ぎたサービス」になる日本だけど、今回帰国したときに面白いことに気がついた。

 

1人池袋で買い物をしていたときのこと、疲れたのでスターバックスコーヒーで一服することにした。グランデサイズのスターバックスラテを飲み干し、いざ行こうと立ち上がって、飲み干したプラスチックのカップを手に、ゴミ箱へと向かった。ゴミ箱はゴミの種類によって、丁寧にいくつもわかれていた。ここで僕はふと思ったのだ。「サービス至上主義を掲げている日本でも、カップは自分で片付けなければならないんだ」と。日本はとても秩序と統制がとれている国だ。このことは311で、世界中にも知れ渡ったと思う。このスタバの件で僕が悟ったのは、「サービスより優先されるは協調性」ということだ。特筆すべき点は、「これが店側のルールではなくて、日本人に染み付いている暗黙のルール」ということだ。

 

協調性を重んじるという件でもうひとつ面白いことがあった。インターネットの書き込みで、某大手本屋の店員(2chquestion.doorblog.jp/archives/23360133.html)が「読み終わった本をもとに戻さない客がいるとイライラする」って言ってたけど、「本を片付けるのが仕事じゃないんか?」って僕は思った。僕も本屋に行くと大量の本を持って、席に座って読むことが多い。(その割には全然買わない)はっきり言って、戻すのは面倒くださいし、細かい位置までは覚えられない。かくいう僕も、帰国したときに本を大量に本棚から出して、椅子に座り読みあさった。戻そうと思ったけど、どうにも数が多いので、そのままにして帰ってしまった。今はすごく反省してます・・・(^_^;)そこで僕は改善策を提案したい。

 

「読み終わった本はこちらに載せてください」と書いてあるシールを貼ったカートを店内に設置しておくといいと思う。カートに置かれた本は、店員がこまめにチェックしてもとに戻せば、次見るお客さんが困ることもないだろう。僕が通っていた大学の図書館は各フロア毎に何箇所かそういうカートが設置されていた。

 

スタバの件でも、混雑しているときはお客さんが自分でカップを片付けたほうがいいけれど、空いているときや余裕があるときは店員に任せていいと思う。お客さんはあくまで寛ぎに来ているんだから。

 

 

 

⑤お隣の国からお隣さんに~日本と中国の処世術~○

 

 僕の実家の隣には中国人女性が住んでいる。中国の上海から嫁いできたらしい。僕の母親の話によると、彼女は、その家を建てた夫の父を老人ホームに追い出し、自分の夫の父が大切にしていた犬も捨ててしまった。追い出された老人は、追い出される前日、家の前で泣いていたらしい。その後、何日もせず亡くなってしまった。

 

 中国人は家族を大切にする民族だとずっと信じていただけに、なんだかとても複雑な気持ちになった。その後何日かして、彼女の友達が車で遊びに来たらしく、車を家の前にあるアパートの駐車場に停めていた。中国人の思考では、「誰も停めてないんだから、停めたっていいだろう」というとても合理的な考え方だ。日本では合理的かどうかなんて考慮に入れない。日本人が行動する基準は、「ルールに合っているかどうか」そして、「場の空気に合っているかどうか」だ。いまこっちで、川沿いをジョギングすると目の前には一面に畑が広がっている。この光景見るたびに「勝手に植えてるんだろうな~」って思う。

 

 もし身近に日本のルールに合わない行動をとっている中国人や外国人がいたら、日本人はこの2つのことを教えてあげなくてはいけないのではないだろうか。

 

 「ルールを遵守し、空気を読む」これが日本の処世術だと僕はいまようやくわかるようになった。で、中国の処世術はというと、「自分が真っ当に権利と利益を得るために全力を出す。そのためには、大きい声出したり、強気にだってなれまっせ!!」ぐらいのタフな根性でいかないと、中国では生き残れない。ただ、これが本当に疲れる・・・。