今ではとんでもないことですし、まったく考えることもできない現状になっていますが、通学の近道を求めて、ご近所の屋敷に入り込んで庭を横断して、小学校への抜け道にしていた頃がありました。

小学校の頃は、子供としてはその行為が当たり前の解釈で、ちっとも違和感を抱いていないし、極普通にして通行して、庭主もいたって横柄にかまえてくれて、何処の家の誰兵衛と名前を呼んで元気をくれていましたし、時にはスイカやお菓子を振舞ってくれた時もありました。

世の中全体がそうさせてくれていたのでしょうか、あるお宅では、先生も時々利用していたことがあり、時代性の長閑さが懐かしく思い返されてきますし、奥の深いお家では、庭の真ん中で立ち話をしてしまうほど、実に長閑に暮らしていたことが、今となっては実に不思議なほどです。

人の心が豊かであったのではなく、家同士のお付き合いとか、土地や家屋の価値とかを、全てに貨幣価値に換算してしまうほど、打算の働く世の中でなく、至ってノンビリと無頓着に構えることができていた、古き良き時代であったからでしょう。

一昔前には、知り合いがいる長野県に行くと、玄関の鍵を閉めないままに、一日中外出ができていた体験をもっていますが、外者の私がいても同じことで実に不思議に思っていたのですが、さすがに昨今では危機管理が進んでいて、何処のお宅も戸締りは確りとしていることだと思います。

我が家のご近所で最近に聞くところでは、きっちりと戸締りやセキュリティー警報をつけても、以外に被害に遭うお宅もあったりして、今の世の中の索莫とした模様が窺えるのですが、以外にも無頓着にして戸締りを忘れることがあっても、大した災難も無く過ごせているお宅もあることを、何度か直に聞かされています。

毎日マスコミを通して、悲惨で恐ろしい事故や事件が多く発生しているのですが、人が心に持っている優しさとか思いやりの心が欠如しているように思えますし、接するコミュニテーの中での交流が希薄になって、相手を思い遣れる優しさが無くなっているからでしょうか。

お互いに無感情に無表情にしている世界ほど、無味乾燥の無価値さになってしまい、お互いに接することで、刺激をしあい感化し合う場を求めなくなっているのかと詮索をすれば、近くの幼稚園やコミュニティセンターでは、毎日のように和やかな挨拶が聞こえてきます。

賑やかに会話をしあう姿が観てとれますが、家の中にお邪魔しあって家族との交流が出来ない理由は色々あっても、家族構成も分からないままの上辺の交流からは、全てに律する抑制力が薄まる気配がします。

昔のように庭先を開放させることや、隣人に不足したものを貸し借りしたりすることは無理にしても、積極的に塀越しに声を掛け合うとか、家族の交流がされる風の存在を高めてみたく思います。

ご近所にお元気で生活する高齢な方がいらっしゃっても、なかなかお声を掛けるほど庭先や表に出てこなく、自然流にできる交流の場が、すっかり陰を潜めてしまっているのです。

お陰さまで、我が家には、いろいろな手作りのお料理が届いたり、神さんの交流する高齢な方々も、できるだけお目にかかって声を掛け、道すがらの交流も此方から近寄ってあげるほどです。

公園や街中ですれ違う時にも、顔なじみで無い方にも出来るだけ一声運動を心はけているのですが、特に犬の散歩をされている方には、積極的に挨拶をすることを心掛けています。

どれほどの効果やお陰があるのかではなく、適度な声掛けや思い遣りから生まれる、自分自身の豊かさを、少しでも積みましていけることを念じるだけですし、子供のころに利用できた庭先を通させてくれたことの、恩返しができることを願うだけなのです。

草の根運動的な思いなのですが、一人よりは二人二人よりは三人と、価値感を共有でき心の伝道をし合える、住みよい世の中のお手伝いをしたいものです。