身につけている雅量が小さくて、なんやかやと人様の力量を期待してしまうのですが、日々の生活の中では、誠にありがたい時の運が身に助けをしてくれて、事なきを得て大きな災禍から逃れることができているようです。

自分でも驚くほどものすごく晩生な性格をもっていますので、思考する助走時間がありすぎるために、どれほどか人生時間の無駄をしていることかわかりません。

時々に端的な結論をだせない性格は、時には時間が掛かりすぎてしまい、何度か人様にも悪影響を及ぼすこととなってしまうのですが、こうして初老までの間変わらぬ生きかたができていること事態が、巡り合わせと強い運勢が身についているのかもしれません。

特段に恵まれた裕福な生活で過ごしてきたわけでなく、とくに金銭的や物質的な至福ごとよりは、人様との交流の中で、自分の性格を成長させる機会に恵まれていたことを、とっても幸いごとに思っています。

子供のころより大人社会の中で生活がされてきて、いつも親類縁者が集まって来る家でしたので、訪問してくる方はいつものんびりとした流れる時間を楽しんでいて、朝から夜までまるで家族のような人も居たくらいの出入りがありました。

同年代の子供たちとの交流も、当然のこと積極的に遊ぶことがありましたが、沢山の親類縁者が出たり入ったりして、時々の食事も当たり前のように家族の中に入って済ませ、その交わされる会話が耳学問になって、日々少々大人びた子供に成長されていたように思います。

当然のことですが、リアルな大人の会話には駆け引きの商取引や、際どい人間関係の話があって、子供心にも自然的に大人びた深い啓蒙がされてしまったようです。

子供時代からのそうした影響があってか、非常に人様との関係には敏感になっていて、人の存在が気になりますし、その人間関係が上手く構築させるための思考を働かせる、先天的な能力を遺憾なく発揮させることができそうです。

話し上手よりも聞き上手になりたいと、年齢が嵩むに従って本気で思うようになっているのですが、身体の胆には子供のころの聞き耳を立てていた慣習が残っているからでしょうか、先ずは人様の話ぶりが気になってしまいます。

日常にはまったく違った場面で、人様々に会話をしていますが、百人百様の個性をもって話しを伝えてくれるときに感じる、個性豊かな癖をお持ちの方が殆どで、必ずある種の節回しを個性として発揮されているようにみうけられます。

これからも、様々な個性ある方々との交流がされますが、なるべく聞き手側になることを心掛けていきたいものですし、じっくり聞き入る心掛けの中で、どのような判断と行動をすれば良いのかを判断してみたいものです。

生きてきた経験を上手くいかせることを心掛けて、多くの方の語らいの中で耳をダンボのように大きくさせて、一人でも多くの情報発信を無駄にすることなく生かせてみたいものです。

できれば、子供のころに経験をさせてもらったように、若者にも耳学問を経験してもらいたく、どのようなことでも話しあいの日常に、一人でも多くの若者も同席できる環境を作って、対話をしてみたいものです。

話しが見える環境を大事にさせて、顔と顔の見せ合う中で、隠し事の無い堂々とした対話をできる環境を構築させてみたいものですし、口害もなく何事も無い日常を期待して、さりげない意見交流の公開の場が日常であってほしいことを夢みているのです。