他所の御宅はどうしているのだろうかと訝っても、どこのお宅もさして代わり映えがない生活がされているのでしょうが、なかなか他人の家庭内などは、心底伺い知ることができないところが多々あって、空想の模様を思い浮かべるだけでお仕舞いとさせます。

今の世の中ではお隣さんのお宅と言えど、家族構成が良く分からないくらい、お互いに稀薄なお付き合いがあるのですが、年末を迎えた週末になると、普段は家庭が見えづらいお宅でも、ご主人が朝から屋外を動き回ったりして、小さな子供までが一日中元気に声をあげている様子が、垣間見られる平穏さが感じとれる年末風景です。

我家と言えば、久し振りで買物に出掛けて、家人の付き合いで車の運転を請け負ったのですが、師走の気忙しい街並みの中で、先を急ぐ人や車が結構多く遭遇し、年の瀬独特な活気をもって、街に息吹きを掛けてくれているようでした。

明るい陽光を車の中で一杯に受けながら、我が老夫婦と言えば、通る道が違うとか、この道筋は赤信号が多いとか、この道を通るのであればついでの用事を済ませていくとか、思わぬ指令がとんできて、心地良く運転を任される状況でなく、気が滅入るほど感情が高まって、いらいらしてくるのでした。

何年間同じ屋根の下で生活を共にしてきたかは別にして、一時の気分がすれ違っては、どんなにすばらしい愛情と信頼があったとしても、時にはすれ違いの現状もあることを納得させて、世間で言われるような、水や空気の価値存在として、飽きない堪忍ともなっているようです。

耐えることとは意味合いが違いますが、家人の強さがあってこその我家であることを、すべてに認識せざるをえなく、老いた長年の経験上の話ですが、家長の社会的な地位がある方こそ、家庭内での権威は意外なほど控えめで、悠然と淑やかにされているのが伺えます。

家庭内ではカカア殿下であればこそ、家庭安泰となって安らかな家族愛が発揮させられるのですが、お互いに自分のプライドがあるのか、長年の我が儘が発揮させられるのが、老いて行く夫婦仲の宿命なのでしょうか。

家族の平穏無事の証が夫婦喧嘩の中にあるとすれば、夫婦で確りと容認し合っているからこそで、時には勝手に癇癪を許されるのでしょうし、認め合って許しあっての愛情を超越させるのでしょう。

我家の老夫婦も今となっては勝手気ままな間柄ですが、何をしてもかにをしても、一緒にいてくれるからこその支えとなって、その支え愛が極々自然化している今様が、素直な感謝の気持ちが必要だと認めています。

艱難辛苦をともにできる絆は、所詮は他人同士の夫婦とすると、日々の許し愛の積み重ねは、愛情と言う魔力に導かれて、信じ合える同志として信頼を感じ取り、味わいある夫婦愛を演じあえると思います。

時々複雑な思いを感じながら、我が夫婦としての上さんを見つめることがありますが、顔にできた皺の数々は、おそらくはその原因の主たる存在を認める身として、神さまであり、神さんであり、すべてを委ねたお母さんでもあるのです。

そのことを分かってはいても、車の中でのイライラの昂ぶりは、まるで子供が母親に余えて反抗をするように、完全降伏して素直に従がうだけの駄々っ子なのかもしれません。

我が神さんと二人して、そろそろ晴れて豊かな老後を分かち合える為にも
、恩義に感謝と報恩を認めて、できる限りの従順とさせて、支あえる役目を確りと果たしていこうと思うのです。