錯覚と言うよりは思い込みが強すぎると、とんでもない単純なことが思い違えてしまい、ことによると大きな間違いや自己に結びつくことになるかも知れません。

ごごになって、穏やかで暖かなお天気に誘われて、二匹の愛犬をお供にして、ほぼ真西に伸びた一直線の道路を延々と歩いていました。

太陽が沈みかけていて、時間と共に地平線に下りてくるのですが、いやがうえにも目の中に西日が差し込んできて、年齢も影響してか軽度な白内障の症状があるために、ことのほか眩しくみえました。

散歩コースは市街地の高台になっていて、遥か遠くの繁華街には、市のランドタワーになる47階建てのビルがほぼ完成に近付いています。

どこにいてもこのビルが大きな存在として、目に飛び込んでくるようになって、日が経つに従がって、建っているのが当たり前の状況になって、感覚的にも自然と建物を認知している自分を感じ取れています。

市街地に向かいながらの散歩でも、建物を真正面に観る形で歩くのですが、歩くほどに建物が近付いてくる光景が、余りにも大きすぎることに気付き、無意識に散歩しておいた意識を起こして、頭の整理をしながら歩を進めてみました。

西日と対面しながらその中間当たりに存在する高層ビルは、赤く染まった西日の蔭として目に飛び込んでくるわけで、いくらなんでも大きすぎるビルの陰影は、他の建物だと判断をしても、他にはこんなに高い建物は存在していないのです。

目に眩しすぎる西日を遮るように目を細めたり、野球帽子を深く被ってつばを日除けにしたり、歩きながらも漸く理解できたことが、歩道に立てられた大きな看板であったのです。

まさしく立て看板の裏には、市街地に聳え立つ高層ビルが隠れていて、その姿は遥かに遠く小さくも、堂々とした姿が立体的に遠望できました。

完全なる錯覚と言うよりは、思い違いの激しさがあって、ビルの形が似ているが為に、まったく違ったものを認識していた自分が可笑しく、笑えないほどの単純な思い込みが不思議でもあって、帰路はひたすら反省する思いだけでした。

そんな経験をしたあとには、おそらくは、偏見という西日をうけて、人を違った目で視てしまっている自分がいることに思いをはせて、どれほどの方を一方的に思い違えているかもしれません。

なかなか腹をわっての話し合いができない日々の中で、上辺だけで人を判断していることが多くあり、固定概念として、また先入観念として勘違いをしているとしたら、相手の方にも申し訳ないし、自分にとっても大きな損失に成っている分けです。

人様の蔭になっている人、人様の噂に隠されてしまっている真の人柄
も、心して自分の目と頭で観て判断をして、真の友として交流ができる方が、一人でも多く増えることを望みたいものです。

この世の中には西日と同じような勘違いの弊害源が、意外にも多く身近に存在をして、自身の心のなかにも、潜在している気がしてなりません。