お宅には世話になったんだよ、お宅のお父さんお爺さんにはいろいろ力になって貰って、今までの生活には随分助けてもらい、お宅にはたくさん報恩する義務があるんだ。

何かの拍子になると、同じ話が繰り返されるのですが、昨日亡くなった叔父貴は、機会があると口癖のように、先の話を繰り返していた時期がありました。

叔父の口癖は社交辞令なのか、どれほど支援を受けていたのかは、関係者が仏となった今では、詮索することもできません。

昔はお互いに助け合う相互扶助の精神が確立していたようで、細かな事情は分かりませんが、我家の語りごとのなかにも、何回か親父やお袋から聴かされていましたから、数人の方が恩を感じているのは事実のようです。

父親は少なく二人兄弟なのですが、母親の兄弟姉妹が7人と多くて、父親と母親は従兄弟同士ということも重なって、他所のお宅の倍くらい伯父貴叔父貴伯母叔母が存在する、親戚関係が多い立場なのです。

昨日亡くなった叔父が最後の存在で、残っている叔母が二人だけとなって、実にお寂しい気がしているのですが、それぞれの家の跡継ぎが多くいて、誰が誰だか分からないのが実情で、ジグソーパズルのように関係を解く必用があります。

昨日はお通夜があって、今日は葬儀告別式と納骨式があったのですが、その儀式の合間合間の場では、まるで同窓会のように輪になって語り合って、実に賑やかな家族の紹介となりました。

お互いの身体の中に脈々として流れている一族の同じ血が騒ぎ出して、遥か昔の微かな思い出に呼び戻されて、記憶のダイヤルを廻して同調をし合って、彼方此方で納得した大きな歓声が聞こえたほどでした。

最語の叔父は太平洋戦争中、衛生兵として下関から小さな船に乗って、当時の朝鮮釜山に向かっていた時に、アメリカ軍の空からの機銃に遭って、船は沈没してしまい乗組員は溺死し、ただ一人叔父が左腕を欠き釜山沖で漁船に救助されたそうです。

戦後50年目に初めてロータリー・クラブの姉妹クラブ訪問で、釜山の町に初めて訪問をしだして以来、毎年何回か訪問をするなかで、遥か昔に叔父が怪我をした左腕を、釜山の地に眠らせていたとは、奇縁や奇遇を感じてしまいます。

本人が生存中にこの話ができれば、もっとリアルでピンポイントの情報交換ができたし、意外な関係が明らかになったとすると、少々残念でもあります。

近々に釜山に行く用事があるのですが、叔父の滞在した町で接する人と場所が、今でも重ねあっていたとしたら、そんな歴史事実を亡くなる前にでも、沢山伝授されていたと思うと、これまた奇遇な人生の流れを考えてしまいます。

より親密度が深まった近代都市の釜山の地に、生前に行かせてあげたかった叔父ですが、奇縁の齎したご縁を探して、一層好きになり、63年前に爆撃された歴史探報をしてみたく思っています。

お宅には世話になたと言い張っていた奇縁は、ひょっとすると釜山の街がその役目を果たしているかもしれませんし、根が共通する人脈が隠されている気がして、新たな興味がわいてきたところです。