日常的に目で観て、耳で訊き、語ることが出来る範囲では、良く理解をしている心算であるルールごとが、ついついお座成りになって、基本的な決まりごとを知ろうとしないままに、惰性で過ごしていることに気づかされることがあります。

仕来たりだからとか、慣習だからとか言われる範疇の、表面的な理解度で時々の諸事を流されてしまい、根本的なルールを辛うじて踏みとどまって歩んでいる姿は、一見ほほえましく観ることができます。

しかしながら、良く理解をして、知った上での踏襲であれば好いのですが、俗な慣習ばかりを信じて優先させて、その逸脱に重きを置いていきますと、徐々に基本から離れていく危険が大きいと、チョッとばかり心配ごとをしてしまいます。

どんな集まりでも、基本にある約束事が大きな要としてありますが、用紙に書き込まれた決まりごとがあっても、なかなか改めて積極的な解読はしないものです。

その所属する団体が、民間であれお役所であれどちらにも関係なく、そこに集う人々の公平で平等な立ち位置を基本にして、もっと尊重させるべきものだと思います。

それさえも甘えてしまい、積極的に触れようとしない傲慢な心がけは、多少の許しを与えても、決まりごとにあることさえ知ろうとしない、非常に卑怯な人々が多いことが残念です。

自分自身の意識でもって、書かれている決まりごとを良く読み込めば、より一層集合体の決まりごとが理解でき、新たに知る喜びをもとに知識や知恵が沸き起こる機会となり得るのですから。

慣習とは恐ろしいものでして、仕来たりで通してきた人の、意見が強く繁栄をされることがあって、どうしても慣習でこられた方には融通性がありますので、寛容に慣用の大まかにもなりがちなのです。

結果的にあの人はこう言った、この人はこう言ったとの解釈の差が出てしまいがちで、同じ集まりの中でも、分列した仲間の集まりが出来やすいのです。

上辺だけの知った心算が引き起こす、極々ありがちな、意見の相違が出来てしまうのですが、これとれ、日頃からの情報のキャッチボールが疎かになっていた証でもあるのです。

日ごろから問題になることとか、新しい情報の収集とかをもとに、参加する皆さんが一つになって情報の交流をすることで、言葉の語り掛けと同じ目線で意識も高まるのです。

違う価値観の方が居るとすれば、こうした環境でもって切磋琢磨の学びが出来やすく、お互いに所属する決まりごとをも知って、相乗効果の改善がなされてくると信じています。

あまりにも高飛車な改革改善を謳ってしまいますと、他の方との歩調も合って、一人だけ孤独な立ち位置になる可能性もあって、集合体での歩幅は心構えが必要になってきます。

皆が基本の守りごとを好く認識をして
こそ、和みをもち穏やかに分かち合うことができることを、改めて推進をしていきたいものだと思っています。