急に思いついてしまうと、目先のことをほっといて、夢中で気づいた思いをやり遂げなかれば気がすまない性質で、悪癖な性格をかえる術がないのが情けなくあきれ返っています。
早朝から朝食もたべないまま、事務所に閉じ篭って隅隅にある引き出しを全部ひっくり返して、不要な書類等の整理の作業を始めてしまった。
数年前も同じような衝動性をもって、整理作業をした覚えがあって、その後の暫くの間は気を遣って綺麗に整えることにさせて、書類が綺麗に整理整頓されているのですが、時間の経過と共に自然と振り分けが雑になって、資料が分からないほど雑多な有様になってしまう。
きちっと目的別に棚と引き出しの設備が有るのだから、そのまま利用すればなんのトラブルも発生しないのですが、人間が鷹揚に出来ていますと、いい加減さと言うか適当さと言うのか、粗雑さが大いに発揮されてしまう日常だ。
つい先日は保険関係の書類を全部整理し終わって、その衝動の波動が尾を引いていたようで、今日早朝からの作業に結びついたのかも知れない。
このたびの二回に分けて整理をしてみた結果は、普段如何に不要な書類の山の中にいるかが納得でき、必要でないゴミ類を捨てきれなく、重ねて日々ゴミの山にさせていることを思い知る事ができた。
先日が大きなダンボール二箱分を処分させて、今回は大きなゴミ袋を三つ使うこととなって、その重量といったら大人の体重と匹敵するくらいであった。
究極的な合理的さを求めていくならば、必要最低限のものがあれば済むことなのですが、事務所にも住まいにも、どれほどの無駄で余計な物が溢れかえっているのかが、存分に思い知らされた。
毎日のように届く郵便物を始め、いろいろな資料の作成とか、ダイレクトメールとかが、自然と時間が経つほどに溜まってしまうが、複雑すぎる現代の社会情勢を再認識させられてしまう。
究極的な効率を追求するのであれば、身体一つが最高にシンプルで、ホテルのような生活を求めれば、常に身軽に生活ができていくのだろう。
しかし、人間の生き様とは面白いもので、煩雑に汚れまくっている我が家に愛着がもてて、ぶっきらぼうな家族との遣り取りがあって、安心できて憩える空間となる気がする。
煌びやかな環境を追い求めること事態が、多様性をもって社会構成が成り立っている人間社会では、困難なほどの無意味な時間となる気がしてしまう。
血の通った温かさとは、清濁を受け入れるだけの度量が必要なのかも知れなく、自戒反省の求めに応えられる、臨機応変の心変わりができる、柔軟な豊かさを証明できる気がする。
また何年か経ってみれば、きっと不用品の山が見事に出来上がっているだろうから、その時に片付けする気力があれば、まだまだ見捨てた人生ではないことになるのだろうか。
それであるからこそ、今までもこれからも同じような体験を
、微笑ましくも夢中で味わう宿命になっている気がしてしまう。
早朝から朝食もたべないまま、事務所に閉じ篭って隅隅にある引き出しを全部ひっくり返して、不要な書類等の整理の作業を始めてしまった。
数年前も同じような衝動性をもって、整理作業をした覚えがあって、その後の暫くの間は気を遣って綺麗に整えることにさせて、書類が綺麗に整理整頓されているのですが、時間の経過と共に自然と振り分けが雑になって、資料が分からないほど雑多な有様になってしまう。
きちっと目的別に棚と引き出しの設備が有るのだから、そのまま利用すればなんのトラブルも発生しないのですが、人間が鷹揚に出来ていますと、いい加減さと言うか適当さと言うのか、粗雑さが大いに発揮されてしまう日常だ。
つい先日は保険関係の書類を全部整理し終わって、その衝動の波動が尾を引いていたようで、今日早朝からの作業に結びついたのかも知れない。
このたびの二回に分けて整理をしてみた結果は、普段如何に不要な書類の山の中にいるかが納得でき、必要でないゴミ類を捨てきれなく、重ねて日々ゴミの山にさせていることを思い知る事ができた。
先日が大きなダンボール二箱分を処分させて、今回は大きなゴミ袋を三つ使うこととなって、その重量といったら大人の体重と匹敵するくらいであった。
究極的な合理的さを求めていくならば、必要最低限のものがあれば済むことなのですが、事務所にも住まいにも、どれほどの無駄で余計な物が溢れかえっているのかが、存分に思い知らされた。
毎日のように届く郵便物を始め、いろいろな資料の作成とか、ダイレクトメールとかが、自然と時間が経つほどに溜まってしまうが、複雑すぎる現代の社会情勢を再認識させられてしまう。
究極的な効率を追求するのであれば、身体一つが最高にシンプルで、ホテルのような生活を求めれば、常に身軽に生活ができていくのだろう。
しかし、人間の生き様とは面白いもので、煩雑に汚れまくっている我が家に愛着がもてて、ぶっきらぼうな家族との遣り取りがあって、安心できて憩える空間となる気がする。
煌びやかな環境を追い求めること事態が、多様性をもって社会構成が成り立っている人間社会では、困難なほどの無意味な時間となる気がしてしまう。
血の通った温かさとは、清濁を受け入れるだけの度量が必要なのかも知れなく、自戒反省の求めに応えられる、臨機応変の心変わりができる、柔軟な豊かさを証明できる気がする。
また何年か経ってみれば、きっと不用品の山が見事に出来上がっているだろうから、その時に片付けする気力があれば、まだまだ見捨てた人生ではないことになるのだろうか。
それであるからこそ、今までもこれからも同じような体験を
、微笑ましくも夢中で味わう宿命になっている気がしてしまう。