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【維新を歩く】長野市・象山神社 黙想すれば志士と語らう息遣い

慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の影響もあって、明治維新が脚光を浴びている。近代日本への大転換をもたらした維新ゆかりの舞台や人物の足跡は、甲信越や静岡の各県内にも数多く残る。記者が現地を訪ね歩き、歴史の一端をひもといた。
佐久間象山の開明的な思想が明治維新の礎を築いたのは紛れもない事実であり、江戸で開いた私塾からは、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬ら時代の歯車を動かした数多くの志士を輩出してもいる。
不幸にも象山は元治元(1864)年、明治の世を見ることなく、京都の三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。だが、その偉業をたたえたいと念願する地元の思いは強く、明治44(1911)年には、「松代象山会」が設立され、象山を主祭神とする神社の建立に向けて動き出している。旧内務省に許可されたのは昭和6年のことだった。
象山神社が発行した冊子によれば、13年に執行された鎮座祭には全国から約5千人が参拝に訪れ、松代は祝賀ムードに沸き立ったという。今年は維新150周年の節目に当たる。象山神社も創建80周年を迎える。
境内の一部には、象山が生まれ育った宅地跡が含まれている。残念ながら、今では建物がなく更地になっているが、表門や裏門があり、「主(おも)屋(や)跡」などを指し示す案内プレートがある。それをたどりながら象山が当時、どんな暮らしぶりをしていたのか、想像をめぐらすのも一興だろう。
門弟の松陰がペリー艦隊で密航を企てた事件に連座し、44歳のときに松代で蟄居(ちっきょ)するよう命じられた象山が、憤懣(ふんまん)やる方ない思いをありのままに吐露した「桜賦(さくらのふ)」という作品がある。
「皇国の名花なる桜」で始まるそれは、自身も桜に類する存在なのに志を果たせず、もんもんと暮らしている皮肉な巡り合わせを、少し自嘲気味に詠っている。こんな趣旨である。
「国を慮(おもんぱか)り時を憂い、心を防海に潜め十数年、人のいまだかつて思わざる所を思い、人のいまだかつて発せざる所を発す。ただその効を見ざる」
この当時、はるばる松代に訪れた維新の志士らを迎えた建物「高義亭」が境内の東側に移築されており、希望すれば誰でも中に入れる。
木造2階建ての寄棟造りで、象山は、2階にある床の間付きの7畳半の和室で来客をもてなした。残っている記録をひもとくと、万延元(1860)年には長州藩の高杉晋作が明け方まで話し込んでいた、とあるそうだ。文久年間も同じ長州藩の久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎らが来訪した。
象山神社の滝沢基宮司は「象山先生には信念をしっかりと持って『国を守っていく』との気迫があった」と話す。象山は維新の志士と語らいながら、開国と攘夷で上を下への騒ぎになっていた時勢の行く末に、どんな見識を示したのだろう。問うた相手が思わず膝を打つ卓見を披露したに違いない。いや、問わず語りにまくし立てたのかもしれない。
高義亭はほぼ原形をとどめているから、部屋の風情は当時と変わらない。畳に腰を下ろして目を閉じれば、象山の息遣いが聞こえてくる(産経ニュースより)

*象山神社

長野市松代町松代1502(JR長野駅善光寺口バス乗り場から川中島バス古戦場経由松代行き  で松代八十二銀行前まで約30分 松代八十二銀行前から徒歩10分)

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