戦争の実相を知ることが今ほど大切な時代はない。「絶望的なほど歴史から学ばない人たちへ」 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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昨日貼り付けた8月15日の靖国神社の光景。

ここで軍人のコスプレをして得意げに行進しているオッサンたちは、どう見ても戦場に行った年ではない。

結局本人たちは戦争体験ゼロで、こんなスタイルがカッコいいと思っているんだろう。

そうした低レベル能は歴史を学ばない。

アメリカ軍に竹槍で立ち向かうという訓練を少女たちにさせていた時代から74年余。

 

 

少し古いが、料理研究家の小林カツ代さんの話が強烈だ。

 

 

小林カツ代
「キッチンの窓から見えるもの」

2004年8月28日須坂市メセナホールにて
第6回信州岩波講座での講演要旨

2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載

《キッチンから戦争反対》
私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。
父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。

「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。

まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。

同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。

でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。

戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。

残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。

けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。

ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。

父も、その上官も、もう亡くなった。私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。

だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。

(2004年8月28日 須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨)


 

シベリア抑留の惨状をインタビューした「赤旗」の記事は下記。

 

5年ほど前に中央アジアを旅してきたが、ウズベキスタンの首都タシケントでは、第二次世界大戦後に強制収容された捕虜が中央アジアにまで行かされたことを初めて知った。
シベリヤ抑留と言っても中央アジアまで送られて強制労働をさせられた人が3千人以上いたと言う。
そのうちの79人がタシケントで亡くなったそうだ。現地の人たちが墓碑の面倒を見てくれていてお花も植わっていた。

 

2019とくほう・特報 シベリア抑留 戦後74年…未解決

93歳体験者 強制労働の実態告発

 

反人道的大事件なぜ

 シベリア戦没者の遺骨が「日本人のものでなかった」とのニュースは、日本政府の外交も戦略もない遺骨収集のずさんさを示しました。90歳を超える体験者が、シベリア抑留という名で捕虜としての数年間に及ぶ強制労働の実態と、戦後74年たっても未解決なシベリア抑留を告発します。(阿部活士)

 

 アジア太平洋戦争中、旧日本軍の部隊である関東軍が満州国(現・中国東北部)を事実上支配していました。敦化(トンカ)の関東軍第29飛行場大隊に1944年7月、“陸軍の予科練”といわれた陸軍特別幹部候補生1期生として編入された新関省二さん(93)。横浜市の自宅で、「シベリア戦没者慰霊」と書かれた首掛けを着けて、日本軍の実態と4年間の捕虜生活を話しだします。

“帰す”とだまされ

 「飛行機乗りなのに、飛行機がなく、偵察機のプロペラを外したりつけたりする整備兵でした。対ソ戦に備えて戦車壕(ごう)を毎日掘る作業ばかり。兵隊というより土方作業でした」と振り返ります。

 

 8月15日、上官から集合の合図で、大隊200人は、ラジオから流れる天皇の言葉を待ちました。「ガーガーいう雑音でなにを言っているのかわからない」。終戦の玉音放送であることは告げられず、「奮闘せよとの命令だ。持ち場に戻れ」といわれました。

 

 “ソ連が攻めてきた”との報で、南に退却の命令。大虎山(タイコザン)飛行場でソ連軍によって全員捕まり、自ら武装解除します。“日本に帰す”とだまされて、貨物列車に乗せられシベリアへ連行されました。

 途中で、飢えなどで亡くなった兵は、線路脇に埋めたといいます。

収容所での犠牲者

 当時ソ連には、2300以上の収容所があるといわれ、新関さんらは第7地区第503収容所(ケメロボ州レニンスク・クズネツキー収容所)に12月に着きました。同収容所にいたドイツ兵捕虜と入れ替わりです。

 

 零下40度を超す酷寒のなか3交代で炭鉱に入る強制労働の日々でした。ノルマが達成できないと減らされる黒パンとスープの貧弱な食べ物。おなかをこわす人、栄養失調になる人、シラミで感染するチフスにかかり倒れる人…。「甲乙丙で徴兵されたが、丙で召集された30代の人からバタバタと亡くなった」と新関さん。

 

 遺体は、カチンコチンに凍るまで霊安室のようなところに置かれました。“遺体に服はいらない”と、素っ裸でした。遺体が増えると「埋葬に行くぞ」と指示が出ました。新関さんらは、収容所裏手の丘に、トラックに遺体を運んで埋めました。

 

 「雪原が凍っていて、深く掘れないので雪をかぶせました。遺体は雪原にバラバラに埋めた。名前を書く木片もありません。春になると野犬などに食われた遺体を埋め直したこともありました」

 

 収容所付近の市民や農家の人から食べ物をもらったりと、親切にしてもらいました。「ドイツの兵隊には兄や父が殺されて憎いけど、日本人は何も悪いことをしていない。なぜ日本人が捕虜になっているんだ」とよく聞かれたといいます。

 

 新関さんらが同収容所で亡くなった“戦友”のソ連側が把握する数を知ったのは、1992年に現地を訪ねたときでした。町はずれの約300坪の敷地に106個の石盤の墓が整列に並び、名簿もあると聞いてびっくりしました。「われわれが埋めたところと違う場所だが、墓をつくってくれたことに感謝した」といいます。

全部収集には110年

 2010年に議員立法として成立したシベリア特措法(戦後強制抑留者特別措置法)に基づき、厚労省は、遺骨収集などの取り組み状況を毎年発表しています。それによると、18年度の死亡者の特定は180人でした。未収集の遺骨は3万3000人分以上もあります。過去5年間で合計888人分という収集ペースでいくと、全部収集するのに、110年以上かかります。

 

 「シベリアにはまだ土まんじゅうのままの埋葬地も多くあります。70年以上がたち、シラカバが生い茂り、様相が激変している」。こう指摘するのは、シベリア抑留者支援・記録センターの代表世話人、有光健さんです。「間違い遺骨事件を契機に、場当たり的収集事業を見直してほしい。国民の税金を使う事業だからこそ、総合的に、誰のために、いつまで、どこまでやるのか。何を歴史の教訓にするのか。立法府や世論を巻き込んだ方向づけを国民的におこなう必要があるのではないか」と語ります。

スターリンが命令

 シベリア特措法には、「遺骨、遺品の収集」のほか、「抑留全体の実態の解明、真相の解明」「その戦争犠牲としての体験の後代の国民への継承を図るための事業」を国が基本方針を定め、実施することを求めました。

 

 当時のソ連の指導者・スターリンが出した秘密命令によって、シベリアなどへの移送・抑留が始まりました。捕虜をすみやかに家族のもとに帰すとした「ポツダム宣言」にも、捕虜の人道的な取り扱いを定めた「ジュネーブ協定」にも違反する反人道的大事件でした。同時に、日本側も満州に司令部があり、だれが60万人もの兵を「シベリアに連れて行っていい」とイエスの返事をしたのか。真相はわかっていません。

 

 さきの有光さんは、「事件はソ連で起き、捕虜はソ連・モンゴルで死亡した。記録はロシア語で書かれ、残っています。教科書に記載し、体験者や死没者の孫やひ孫の世代に正しく歴史を伝えるためにも、真相解明など、未解決の課題にロシア側の参画が必要ではないか」と指摘します。

 

 8月15日、終戦74年を迎え、新関さんは呼びかけます。

 

 「戦争になると、赤紙というはがき一枚で召集される兵隊がいちばんひどい目にあう。戦争になればかならず捕虜が出ます。捕虜になるとこんなみじめなことになる。外交で、話し合いで決める時代です。絶対に戦争はしてはいけない」