登戸事件 川崎の光と闇 その想像を絶する格差/スクールバス送迎風景の異常さを親たちも自覚すべき時 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

「原発なくそう ミツバチの会」の活動報告や事務局ノブクンの日々のつぶやきを発信しています。

以下は、僕が注目したFBへの投稿。

この方の言っていることが今回の惨劇の真相を現しているのか、現時点では不明だが、一般論としては正鵠を得ているように思う。

格差社会の拡大、貧富の差の拡大の中で虐げられていると考える人が増えているのは確かだろう。

だからといって、全ての「こいつらは私の姿を見ていない」と思っている人たちが、今回の加害者と同じ訳が無い。

そこまで彼を追い詰めたものが何かは、本人が死んでしまったので判明しないままなのか。

そして何で死んでいくのか分からないまま命を奪われた子どもさんのことを思うと、涙が出てくる。

丸山某のような戦争ごっこと真の戦争の区別も付かない愚か者が跋扈しはじめた時代の反映もあるのか。

 



 「私は岡山県の田舎出身で、18歳で上京後は、板橋、練馬、池袋、中野で暮らしてきた。
 数年前から武蔵小杉で働くようになって、唖然としたのが、川崎の変貌だ。高層マンションが林立し、高級車が走る道路の脇で私らは夜勤10時間労働のために、無料送迎バスを待っている。


 60年生きてきて、最も驚いたのが、スクールバスの送迎風景だ。
 武蔵小杉駅前を歩いている人たちは、ほぼ貧しい。しかし、スクールバス停留所だけはまったくの別世界なのだ。まず、驚くのは、午後5時過ぎなのに、父親も母親とともに子どもに声をかけている姿。金持ちの若い父親は午後5時にはもう仕事をしていない。身なりからなんから、私ら夜勤労働者からはかけ離れすぎている「絵に描いた幸福」がそこにはある。


 まず、私が思ったのは、
「こいつらは私の姿を見ていない」
 ということだ。


 エスカレーター式の私学教育機関があって、親の年収によって試験の合否が決まる。幼稚園児の頃から「将来の幸せが約束された子どもたち」がそこにいるのだ。夜勤10時間の肉体労働をする私らはその「絵に描いた幸福」を見て、職場に向かう。
 エスカレーター式の私学に子どもを送り込んだ親たちは、自分が「川崎でやってはいけないこと」をしているという自覚はまったくない。ゼロなのだ。


 40年も前の話だが、カリタス学園から立教大学に来た同級生もまた、「絵に描いたようなお嬢様」だった。ほぼ話は通じなかった。今はどうなんだろう?


 自殺した犯人は、読売ランドに住んでいた。これは「ニュータウンの犯罪」「再開発の犯罪」だ。
 横浜、川崎は、究極の格差社会となっている。バブル期にドヤ街のすぐそこに億ションが次々に建設されたからだ。


 光の側にいる人間は、闇の中にいる人間の姿は見えない。しかし、闇の中にいる人間は、光の側にいる人間を、意識がある時間、ずっと見ているのだ。


 賃金とか金銭面のデータでは絶対に表せない「人間の心を殺す格差」が、登戸事件の本質だ。
 格差とは排除だ。
 人間はどんな生き方をしてもいいが、排除だけはするな!
 差別をしてもいい。差別は人間の根源的な気持ちだが、視界の中にいる人間を「見なかったこと」にするな!」

 

 

こういう風潮も影響しているんだろうなと思う。↓