<自民党には昔こんな総理大臣もいました>/神奈川県最高峰蛭が岳山行 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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ムネオハウス追求で知られた日本共産党の元衆議院議員であった佐々木憲昭さんがFBに次のような投稿をしていた。

故宮沢喜一首相への思いを書いているが、今の無知無恥シンゾウとは人間の格とか品性とか知性とかで真逆を行くな。

こういう人物は今の自民党にはいないのか。

 

 

「 <自民党には昔こんな総理大臣もいました>

 「自由はある日突然なくなるものではない。それは見だたない形で徐々に蝕まれ、気がついたときにはすべてが失われているような過程をたどります」。

 「ものごころついてから成人するまで、思えば長い灰色の時代でした。しかしいま、当時を回想して戦争中の苦労や食べ物のなかった辛さなどはほとんど憶えていない。ただひとつ、年とともに自由が圧迫されて、ついにまったく死滅するに至ったその苦しさ、それをどうにもできない憤激だけが、今日でも忘れることができません」。

 

 こう述べているのは、誰でしょうか。
 じつは、自民党総裁・総理大臣を務めたこともある故・宮澤喜一氏です(『新・護憲宣言』より)。

 

 私が現職の衆議院議員のときは18年間、大蔵委員会~財務委員会に属していましたが、宮澤さん(財務大臣)との論戦がいちばん印象に残っています。


 何しろ、官僚の書いた紙をほとんど読まず、相手の言うことを良く聞いたうえで自分の考えていることを自由自在に発言し、しかもそれが質問ときちんとかみ合っている。このような宮澤さんの答弁ぶりは、立場は違うけれども私はたいへん好感を持てました。

 宮澤さんは、先にあげた自著のなかでこう書いています。


 「昭和6年(1931年)満州事変が起こったとき、私は小学校6年生で作文の時間にみんなで兵隊さんに送る慰問文を書きました。
 翌年中学校に入るとまもなく、犬養毅首相が総理官邸で撃たれて亡くなった。高等学校に進むころ、2.26事件があり、翌年日中戦争が始まった」。


 「日米間に戦争が始まったので、大学を繰り上げ卒業して大蔵省に入りました。戦争中は、みんなと同じように空襲で家が焼けました。赤紙招集。とにかく生き残って敗戦。そして占領。」

 

 このような体験があったからこそ、こう述べているのです。「将来に向かって自由の制限につながるかもしれないどんな兆候に対しても、厳しく監視する必要があります」


 そして、こう言いました。
 「再び歴史の魔性に引きずられることがないために、われわれは憲法の言うように『不断の努力』をもって自由を大切にし、日本社会の活力を守ろうではありませんか」。

 

 自民党にも、こういう総理大臣がいたのです。

 宮澤さんは、2007年に亡くなりました。
 いま、私の手元に2007年(平成19年)8月28日におこなわれた「『故 宮澤喜一』内閣・自由民主党合同葬儀」の「次第」が残っており、宮澤さんの著書から引用した言葉も記されています。

 憲法に従い、憲法をまもる。──これが、総理大臣のほんらいの役割なのです。」

 

 

 

先日、神奈川県の最高峰蛭が岳(1672㍍)に登ってきた。

蛭が岳は丹沢山塊の中でも奥まったところにあるので、行き着くまでがかなり長い。

主なルートは表尾根方面からと西丹沢から、そして今回は山中湖から道志みちを相模原市青根まで行き林道脇に車を停めて登り始めた。

姫次あたりから積雪があり、軽アイゼンとスパッツを着ける。

頂上直下の階段状の急登は積雪20センチから40センチくらいでトレースを踏み外すとズボッともぐる。

 

 

頂上は30センチから40センチくらいの積雪だった。

1月の塔の岳はまったく雪がなかったが、山荘管理人の話だと2,3日前にかなり積もったそうだ。

 

 

 

蛭が岳山荘は20数年前に建て直ししたとき募金活動をしたのだが、その時僕もなにがしかのカンパをしたので壁の募金者一覧掲示に名前がある。小屋の管理人と同年代と言う事もあり、夕食は彼も含めて一杯飲みながら多いに盛り上がった。

富士の夕景、首都圏の夜景は相変わらず素晴らしい。

 

 

 

朝日もすっきりとは出なかったが、東京湾の上から昇る日の出は格別だ。

 

 

 

5人パーティーで登り5時間45分、下り4時間10分だった。