疑惑・不祥事3カ月で「13」異常事態の安倍政権-「東京新聞」一面トップ見出し | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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4月23日付け「東京新聞」一面トップ見出し。

でもそんなモンだろうなぁと呟く程度に安倍内閣絡みのふざけた話に慣れっこになりつつある。

これは拙いのだ。

新鮮な怒りを忘れて、状況に流されてはアベシンゾウの思う壺。

何しろ口先だけで政権の延命を図っている連中は、国民の怒りの忘却を只管念じているのだから。

 

その「東京」に掲載された疑惑・不祥事一覧表。

 

 

隠蔽・改竄・データねつ造・情報隠し等々やりたい放題。

首相秘書官が国会審議でヤジを飛ばす、自衛隊の若手三佐が国会議員に「国民の敵」と暴言を吐く等は安倍政権の傲慢さが周辺の有象無象にも蔓延していることを示して恐ろしい。

 

 「昭和13年(1938年)には、陸軍の軍務課国内班長だった佐藤賢了が、国家総動員法の説明中に延々と自説を披露。発言を止めるよう求める国会議員らの声に、「黙れ!」と一喝して、委員会室を去るという事件を起こす。この時の佐藤は一介の中佐。将官でもない軍人が政党人を国会で愚弄するという暴挙だったが処分もされず、同年5月には国家総動員法が施行された。

 政党の無力化は進み、昭和15年(1940年)10月にはすべての政党が解散。御用結社「大政翼賛会」が発足して、日本は翌16年(1941年)12月の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争へと突き進むことになる。ちなみに、政党人が矜持を示した事例として憲政史に残る「粛軍演説」(昭和11年)「反軍演説」(同15年)で知られる斎藤隆夫は、大政翼賛会が結成された昭和15年の3月に衆議院を除名されている。斎藤除名に動いたのは、政党政治家の同僚たちだった。政治が軍部に軽んじられた歴史をたどれば、戦争と敗戦の原因が見えてくる。」  「Hunter」より引用

 

こうした戦前の歴史を見ると、軍部の傲慢ぶりを許してしまったが故に戦争という奈落に一気に日本が落ち込んでいったと言う事が良く分かる。

 

そして昨今の情報隠蔽の象徴が、イラク派兵日報問題だろう。

「しんぶん赤旗」は次のように報じた。

 

イラク派兵日報 自衛官駐在 バスラに砲撃

「非戦闘地域」の虚構浮き彫り

「我々は戦場にいる…」「あとは運次第」

図

 防衛省が16日に公表した陸上自衛隊イラク派兵の日報で、自衛隊連絡官が駐在していたイラク南東部バスラの多国籍軍司令部が連日、激しい砲撃にさらされていたことが記録されていました。イラク派兵の要件である「非戦闘地域」の虚構ぶりがいっそう浮き彫りになりました。

 

 バスラでは武装勢力から迫撃砲やロケット、IED(即席爆発装置)などの激しい攻撃を受け、多国籍軍の多数の兵士が死亡。隊員は2006年2月2日付の日報に「やはり我々は戦場にいることを認識することが必要だ」と記しています。

 

 特に06年以降は司令部や居住区の至近距離への攻撃が激化。3月14日の日報には「2月22日のロケット攻撃は、あと6度南にずれていたら居住区内に弾着していた」と記載。正規の発射機よりも4倍程誤差がある即製発射機が使われていたと記し、「一歩間違っていたらという感はぬぐえない」と述べています。

 

 4月14日には、13日の曲射(IDF)攻撃に使われたロケット弾の残骸の写真を掲載。基地内に2発が弾着し「直径1メートル程の穴が開いていた」(4月12日)ことをふまえ、「アスファルト道に一昨日の写真のような穴が開くわけだから、居住区の薄い屋根では役には立たない」と記述。6月30日には「居住区は耐弾化されておらず、あとは運次第と思って過ごしてきた」と記しています。

 

 「至近200メートル、屋根に破片が当たる音」(6月12日)、司令部南側150メートル、IDF攻撃2発(6月25日)、弾種不明3発、司令部北側300メートル、南側1キロ及び1・5キロ(6月26日)など間一髪の状況が続きます。

 

 06年5月6日には、イギリス軍のヘリコプターが、サドル(イスラム教シーア派指導者)派民兵の携帯地対空ミサイルの射撃を受けてバスラ市街地に墜落し、乗員5人が死亡。墜落現場付近に群衆が集まり「ヘリの墜落を喜ぶ」、「投石、火炎瓶の投擲(とうてき)」など、多国籍軍が敵視されていたことがうかがえます(5月8日)。日報では「英軍」の部分は黒塗りでしたが、隊員の日誌に「英軍ヘリ墜落事案」と記載されていました。

 

 

 

 

 

「イラクへ派遣された陸海空の自衛隊員は、5年間で延べ1万人。
隊員の精神面にも大きな影響を与えていました。
NHKの調べで、このうち帰国後28人が、みずから命を絶っていたことが分かりました。
28人は、なぜ命を落としたのか。
イラク派遣から1か月後に自殺した20代の隊員の母親が、取材に応じました。
イラク派遣のときの土産と、迷彩服につけていた記章が飾られていました。
派遣中の任務は宿営地の警備でした。

20代の隊員を亡くした母
「(息子が)『ジープの上で銃をかまえて、どこから何が飛んでくるかおっかなかった、恐かった、神経をつかった』って。
夜は交代で警備をしていたようで、『交代しても寝れない状態だ』と言っていた。」

息子は帰国後自衛隊でカウンセリングを受けましたが、精神状態は安定しませんでした。
母親は、息子の言動の異変を心配していました。

20代の隊員を亡くした母
「(息子は)『おかしいんじゃ、カウンセリング』って。
『命を大事にしろというよりも逆に聞こえる、自死しろ』と、『(自死)しろと言われているのと同じだ、そういう風に聞こえてきた』と言ってた。」

この数日後、息子は死を選びました。」

 

 NHKクローズアップ現代 

 2014年4月16日放送「イラク派遣 10年の真実」より

 

 

こうした情報を隠蔽して、日本政府はイラクに自衛隊員を派遣した。

憲法9条の箍が外されたら、文字通り戦場での戦闘行為に日本の若者が突入していくことになる。

小池元防衛庁教育訓練局長の「愚かな戦争で自衛隊員を殺されてたまるか」と言う発言を肝に銘じたい。