「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」――報道の在り方を示した英国人の言葉だというが、センセーショナルな話題ばかりを提供するのが報道の使命とは思えず、筆者はこの考えに不同意だ。報ずべきことは、山ほどある。
しかし、この言葉通りの姿勢で下劣な報道を続けているメディアがあることは確か。さらに言うなら、犬が人を噛もうがその逆であろうが、我関せずとばかりに権力側の公表事項を垂れ流す御用メディアも存在している。
先月、日本国内における「表現の自由」の状況を調査した国連の特別報告者が、権力側の圧力で委縮する報道機関の現状に警鐘を鳴らした。的を射た指摘ではあったが、こうした事態を招いた責任の一端は大手メディアにもある。とりわけ、彼らが支配する記者クラブこそ、この国のジャーナリズムを歪めた元凶ではないのか?
報道を歪めた「記者クラブ」
報道に求められる最大の使命は、権力の監視。「報道の自由」とは、そのために認められた最後の砦であり、多くのジャーナリストが、それこそ命がけで守ってきたものだ。安倍政権の圧力で「報道の自由」が脅かされているのは確かだが、新聞やニュース番組の編集権が奪われているわけではなく、戦う意思さえあれば、権力批判は自由にできる。圧力に屈する報道機関の弱さにこそ、問題があると見るべきだ。
そもそも、権力側と慣れ合い、自主規制や自粛といった形で成すべき仕事をしてこなかったのは国内の大手メディア。そこに所属する記者たちで構成される「記者クラブ」こそ、A級戦犯だろう。
記者クラブは日本特有のシステムであり、先進国で一部メディアだけに情報を独占させるケースは稀。持ちつ持たれつの関係が、肝心の読者・視聴者を蚊帳の外の存在にしている。代表例が、首相官邸の記者クラブ。かつては、「神の国発言」で窮地に立った森喜朗元首相に、会見を切り抜けるための指南書を書いたバカな記者(NHK所属というのが定説)もいたほどだ。大物政治家に食い込むためには、「知っているけど書かない」が最善策。そうした政治記者の間違ったエリート意識が、この国の政治不信を助長した一因であることは疑う余地がない。
権力の犬
地方自治体の記者クラブは、よりタチが悪いと言わざるを得ない。自治体の情報を他のメディアより早く報じるのがスクープだと信じ込む輩が増えたせいで、いまや首長や行政とつるむ記者ばかり。敵対者と見なされればリーク情報をもらえなくなるため、多くの記者が権力側に尻尾を振るようになった。こうなると「権力の犬」である。
福岡市役所や鹿児島県庁の記者クラブの不作為については、何度も指摘してきた。ここ数年、市長や県知事への批判は影を潜めており、クラブ所属の記者が独自に調査報道を行ったという形跡もない。たまに出る行政批判は、社会部や遊軍によるもの。市民に届けられるのは、「福岡市は~」「鹿児島県は~」といった書き出しで始まる記事ばかりだ。主語は権力側。読者ではなく、権力側の視点に立った記事なのである。
腰砕けの報道姿勢が、市民に間違った選択を行わせる場合もある。数年前、一期目途中の福岡市長が、警察の力を使ってHUNTERを抹殺しようと画策したことがあった。複数の元市幹部がこの事実を証言し、裏付けを取った新聞があったが、結局は記事化を断念。報道を力でねじ伏せようとした市長の行状を報じることはなかった。調子に乗った市長は、報道規制を強化。市政に批判的な報道があるたび、当該メディアの記者を幹部らが個別に呼んで恫喝するようになったという。
東京都知事が出張問題で批判を浴びているが、負けず劣らずだったのが福岡市長。常時ファーストクラスという公費出張において、自腹で東京泊を延長。芸能人との夜を満喫するなどやりたい放題だった。しかし、一連の出張問題を報じたのはHUNTERだけ。議会でも問題になったが、記者クラブ加盟社は一切報道していない。報道を歪めた福岡市長は、その後の市長選で再選を果たしている。現在、新聞の市政批判は形だけ。記事中で遠回しの皮肉を書くが、見出しはいつも市政礼賛である。
鹿児島県庁の記者クラブはさらに酷く、県側の主張が最優先。県内最大の部数を誇る南日本新聞に至っては、読者ではなく知事の立場を擁護する始末だ(参照記事⇒≪「報道の自由」をはき違える南日本新聞≫。よくよく見れば、新聞の紙面は広報記事のオンパレード。当然、事件・事故が起きなければ、役所の悪行は表に出ない。報道の堕落は、福岡、鹿児島の記者クラブだけではあるまい。
深刻な記者の能力低下
記者の能力低下も深刻だ。ある全国紙の幹部社員はこう嘆く。「ネットでネタを探す記者がいる。自分の足、人的ネットワークではなく、インターネットで記事のネタを探す。それで格好がついて、『新聞記者』を気取っていられるのが現状だ。権力を監視する能力も、志もない記者が増える一方。新聞の部数減は、まさにこれが大きな原因であることに気付いてもいない。能力がないから、権力側からの貰いネタを有難がって、取り込まれた末にちょうちん記事を連発。呆れた読者が購読を止めることで、部数減に陥るという負の連鎖が止まらない。地方の記者クラブで悪い癖がついた記者が、東京でジャーナリストに変身するとは思えない」
「報道の自由」は民主主義国家の絶対条件。守らなければならないのは当然だ。しかし、一方で「報じない自由」というぬるま湯に浸っている記者たちの、なんと多いことか……。記者クラブ解体こそ、この国のメディアを再生させる最善の策だと断言しておきたい。
ロッキードにリクルート、戦後を揺るがした大型事件は、新聞のスクープから始まった。いま、永田町の政治家がもっとも恐れているのは週刊誌。決して新聞ではない。ただし、週刊誌が狙うのは知名度のある人物ばかり。センセーショナルな話題しか掲載せず、地方都市のネタには振り向きもしないのが現状だ。地方を拠点にするネットメディアの存在意義は、まさにそこにこそある。HUNTERは、地方の権力に噛みつく犬でありたい。
「HUNTER」より転載
報道の劣化が言われて久しいが、確かに芸能人の不倫問題が国の最重要課題みたいな報道も続いているし、「安倍首相は云々」とその発言を只垂れ流すだけの「ニュース」も圧倒的だし、すこし問題意識をもってこの国の報道なるものを眺めれば、真実はどこにあるのか自分の頭で考えないと本当の所は分からなくなっている。
僕も名ばかり会員の「日本ジャーナリスト会議」機関紙には次のような記事があった。
米アカデミー作品賞・脚本賞を受賞『スポットライト 世紀のスクープ』――伏魔殿にいどみ、ネタ元に食い下がる記者たちに感動=諌山 修
時代は2001年夏、舞台は「ボストン・グローブ」紙。定期購読者の半数以上がカトリック信者という土地柄だが、この地区の教会の神父が以前から児童への性的虐待を繰り返していたというスキャンダルをキャッチする。
教会権力の強大さを知っている地元出身の記者たちは本格追及をビビるが、マイアミの新聞社からスカウトされたばかりでその辺の事情を知らない新任の編集局長に逆に励まされ、同紙の売り物の特集記事「スポットライト」のチームが徹底取材に突っ込むという物語だ。
そして01年、米国で起きた9・11同時多発テロで一時取材の中断を余儀なくされるが、翌02年1月から教区内の70人以上の神父が長年にわたり性的虐待を重ねながら教会に組織ぐるみで守られ、事件を隠ぺいしてきたという衝撃的な特集を掲載した。記事は600本以上にのぼった。
そしてなによりも自分たちジャーナリストの仕事は世の中を良くすることに役立っていると信じている――映画で繰り広げられるすべてのシーンが、「調査報道」とは何かを我々に語りかけ、勇気づけてくれる。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2016年4月25日号より転載
こんな記者集団が報道各社で奮闘してくれれば、この国の政治ももう少しまともになると思う。
昨日は、大学時代のサークル仲間10人が文京区の小石川植物園に集まった。
小さな子ども連れの集団も数多く来ていて、新緑の下飛び回っていた。
その後池袋西口のレストランに移動したが、都会の人混みの多さにはくたびれる。
やはりシジュウカラの子育てなどを眺めていたり、野菜類の成長を見守っている方が心安らぐなぁ。
この真相は不明だが、STAP細胞がなかったというのは国際謀略説ではとの立場に立つ者として気になる記事ひとつ。
STAP現象の確認に成功、独有力大学が…責任逃れした理研と早稲田大学の責任、問われる
全文は下記からどうぞ。
http://biz-journal.jp/2016/05/post_15081.html