「熊取6人組」今中哲二さん最後の原子力ゼミ「福島の事故は明らかな人災」 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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高浜1、2号機、新基準に適合 老朽原発が相次ぎ延命も

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016022502000138.html

 

などといういい加減な話が公然とまかり通りそうな現実を前にして、京都大学原子炉実験所助教の今中哲治さんが最後のゼミを行った。
自分の研究人生のすべてをかけて原発に反対してきた良心の研究者の言葉が重い。

大阪府熊取町の京都大原子炉実験所で反原発を訴えてきた研究者グループ「熊取6人衆」の唯一の現職、今中哲二さん(65)が3月末の定年退職を前に、2月10日、最後の「原子力安全問題ゼミ」で講演した。講義のテーマは「福島原発事故から5年」。今中さんは「定年後も福島に関わっていく」と語った。(矢野宏/新聞うずみ火)

「福島原発事故から5年」をテーマに講演する京都大原子炉実験所の今中哲二さんは「福島の事故は明らかな人災」と語った。(大阪府熊取町で2月撮影・栗原佳子)

「熊取6人衆」とは、94年に亡くなった瀬尾健さん、海老沢徹さん、小林圭二さん、川野眞治さん、小出裕章さん、今中さんの6人。

原子力安全問題ゼミは1980年6月に6人が始めた市民参加の自主講座。今中さんが定年を迎えるため、112回の今回で最後を迎えることになった。

今中さんは広島市出身。祖母を原爆で亡くした。大学で原子力工学を専攻したが、日本の原発は安全だと言いながら都会ではなく、田舎にしか造らないことから。原発に疑問を持ち始めたという。

76年、京大原子炉実験所に助手(現・助教)として着任。3年後の79年3月に米国・スリーマイル島で原発事故が起こり、今中さんは瀬尾さんと一緒に放射能放出量を評価する作業に従事した。86年4月に発生した旧ソ連・チェルノブイリ原発事故でも20回以上現地に入り、調査研究を行った。


会場からの質問に答えるウクライナの科学者ウラジミール・ティヒーさん(写真左)と今中さん(大阪府熊取町で2月撮影・栗原佳子)

この日は全国から150人が詰めかけ、6人衆も瀬尾さんを除く4人が見守った。


ウクライナから今中さんの親しい友人でもあるウラジミール・ティヒーさんも駆けつけ、「チェルノブイリ事故後30年、その意味と現状」と題して講演。続いて、今中さんの最終講演が始まった。

「大学時代から原子力に付き合って47年になるが、スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島原発事故へたどり着く道を歩んできた」と、今中さんは振り返った。

2011年3月11日、東京電力福島第一原発の6基のうち1号機から3号機が運転中だった。地震で核分裂の連鎖反応は自動的に止まったが、電気も止まり、外部電源もダメになった。タービン建屋の地下にあった非常用電源のデーゼル発電機も10メートルを超える津波で水浸しになった。

 

「福島原発の津波対策は5.7メートルでした。吉田調書によると、2008年に東京電力内部チームから、福島原発で10メートルを超える津波の可能性が報告されていたにもかかわらず、握りつぶしてしまった。原発は危ないものだという認識を忘れずに対策を取っていれば回避することができた。その意味でも、福島の事故は明らかな人災だ」


大阪府熊取町の京都大原子炉実験所で反原発を訴えてきた研究者グループ「熊取6人衆」の今中哲二さん(65)が3月末の定年退職を前に、最後の「原子力安全問題ゼミ」で講演した。講義のテーマは「福島原発事故から5年」。今中さんは「日本はこれから50年、100年と放射能汚染と付き合っていく時代になった」と話す。

 

「熊取6人衆」全員がそろった最後の「原子力安全ゼミ」。左から海老沢さん、瀬尾さんの遺影を持つ今中さん、川野さん、小林さん、小出さん(大阪府熊取町で2月に撮影・栗原佳子)

震災発生の翌12日に1号機が水素爆発を起こし、14日には3号機も水素爆発を起こした。大変な放射能汚染が起きていることは明らかだったが、まったくと言っていいほど情報が出てこない。「これは隠される」と思った今中さんは、自分たちでデータを取っておく必要があると考え、この年の3月28、29の両日、福島県飯舘村に入った。

飯舘村は福島県浜通りの北西部にあり、福島第一原発から半径30キロ圏外。このときは避難指示区域にも指定されていなかった。



「放射能に汚染されているといっても放射線量の高いホットスポットがあるぐらいだろうと思っていたが、村の南側の長泥曲田(ながどろまがた)地区で測ると1時間あたり30マイクロシーベルトだった」



労働基準法で18歳未満の作業を禁止している放射線管理区域の約50倍。そんな放射能汚染の中で、飯舘村の人々が普通に暮らしていたことに驚いたという。



今中さんは、村民の初期放射線被ばく評価に関する研究に参画。498戸1812人に聞き取り調査を行い、行動データから得られた被ばく分布を作成した。



震災からまもなく5年。今中さんは「除染という名の環境破壊が行われている」という。除染で出た汚染物を入れたフレコンバッグが村のいたるとこに積み上げられている。



「飯舘村は人口6000人の村ですが、毎日7500人の作業員が除染作業を行っている。1日あたりの1人の諸経費を5万円とすると3億7500万円。1年で約1000億円。飯舘村全体の除染費用だけでこれまで3000億円が投じられている。しかも、除染したところで放射線量が下がるのは半分以下。一番大事なのは被災者の生活再建。そのために有効に使われているとは思えない。福島全体だと『兆』という金だが、どこへ流れるのか。ゼネコンだ。日本は一つの方向へ動き出すとチェック機能がない。これが問題」



放射線の中のセシウム137の半減期は30年。今中さんは「日本はこれから50年、100年と放射能汚染と付き合っていく時代になった」という。



「怖い怖いではなく、放射能がどういうものでそれを浴びるとどういうことが考えられるのか、それぞれが知識を持ち、判断しなければならない世の中になってしまった」



福島の教訓として、今中さんは避難区域の除染政策の見直しに加えて、「日本に住んでいる人全員の被ばく量評価を行い、しかるべき健康追跡調査を国の責任で行うこと。行政の意志決定や政策実行に関わる役人や政治家に間違いや不作為があった場合にはヒアリングを行って個人責任を問うシステムが必要だ」と訴えた。



今中さんは定年後について、「福島にはずっと関わっていきたい。私にもまだ役に立つことはあると思うので」と語り、最後の原子力ゼミを締めくくった。(了)
【矢野宏/新聞うずみ火】

http://www.asiapress.org/apn/archives/2016/02/22103804.phpより転載

 

 

タミフル投与3日目。
体温は35.5度、「腹減ったぁ」の口癖が少し出るようになってきた。
外出禁止5日間と言われているが、明日は午前中どうしても出かけないといけない会議がある。人に移さないよう完全防備で出かけるか。