震災慰霊行事、苦渋の中止 遺族、心で祈り続けて/阪神淡路大震災から21年 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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激震は母親の命を奪った。近所の赤ちゃんや結婚前の女性の命をも。それでも、同じ地域で亡くなった人々の命の重みをかみしめながら、復興まちづくりにまい進してきた。17日で阪神・淡路大震災から21年。今年は街の追悼行事が取りやめになる。でも、願う。それぞれが心の中で祈り続けてほしい、と。(高田康夫)

 神戸市灘区備後町4の上野貞冶(さだや)さん(86)の自宅は全壊。母すずゑさん=当時(86)、妻明子さん(78)とともに天井や土壁に埋まった。布団をかぶったまま身動きが取れず、胸が苦しかった。やがて、隣の明子さんが助け出されて安堵(あんど)した。「私が駄目でも母をみてくれる」。その後、貞冶さんも助け出されたが、すずゑさんは息を引き取っていた。



 遺体安置所では、何も食べず、眠らず、そばに座り続けた。だが四十九日が過ぎ、「自分は生まれ変わった。次は人のためになりたい」と心を決めた。



 夫妻が住んでいたJR六甲道南地区周辺では135人が死亡。多くの家屋が全半壊し、再開発事業が進められた。貞冶さんは昼は仕事、夜は話し合いに奔走。2002年、自治会連合会長になった。



 震災から10年。高層ビルが立ち並ぶ新たな街は完成した。防災公園のそばには慰霊碑を建立し、翌06年1月、初の慰霊祭を開いた。貞冶さんは「悲しみは胸の中にしまい、無我夢中で走り回ってきた」とあいさつした。



 震災後に移り住んだ住民にも慰霊祭への参加を呼び掛けた。毎年豚汁を振る舞うため、約20人が未明から準備した。「『ご苦労さんです』としか言えなかったが、本当に感謝でいっぱいでした」



 一方、参列者は年々減っていった。震災20年が過ぎ、自治会連合会のメンバーからも「もうそろそろ…」との声が漏れ始めた。貞冶さんは続けるつもりだったが、周辺地域でも追悼行事は開かれなくなった。



 1月5日、自治会連合会の常任理事会。「この辺でやめた方がええと思いますか」。貞冶さんは切り出した。誰からか「続けよう」と声が上がるのを期待していたが、2人しかいなかった。



 「ワンマンで進める団体やない。無理をしてまで『やれ』とは言われへん」。思いをのみ込み、「慰霊祭廃止の件」と書かれた紙を掲示板に張った。



 予定のない1月17日は10年ぶり。貞冶さんは「慰霊碑に手を合わせに行くやろな」。目をやった慰霊碑には、こう刻まれていた。


 〈復興十年槌音(つちおと)止まず 鎮魂の祈り 未来へ伝う〉

「神戸新聞」より転載


倒壊した阪神高速の脇を支援物資を背負って歩いた事を思い出した。
もう21年も経った。
それでも家族を亡くした人の悲しみは続いているし、復興の課題もまだまだあるようだ。
スキーバスの大事故で未来ある若者達の命が奪われた。
こちらは文字通り金儲け第一主義の犠牲だが、子どもたちを失った親の悲しみはいかばかりか。
小泉政権が進めた規制緩和政策の犠牲が続く。
哀しい。

胃がチクチクと痛む。
昨日はかなりの痛みだったが、腹を温めて寝ていたらだいぶ収まってきた。
風邪の菌でもおなかに入ったのか。
急激な寒さと乾燥。皆様も体調管理にお気を付け下さい。