前回の続きです。

 

町並駐車場に車を駐めて、

散策しながら、伊予銀行が有る交差点まで来ました。


 

 

交差点から歩いて、2~3分

 

文化交流ヴィラ高橋邸に到着

 

 

 

 

 

日本ビール王、高橋龍太郎の生家です。

 

 

 

高橋龍太郎(1875年7月15日~1967年12月22日)は、

太平洋戦争後、通商産業大臣として、麦酒業界を通じて経済復興に大きく貢献。

 

 

アサヒビール株式会社の会長でもあった、長男の高橋吉隆氏が、

郷土である内子町への思いを寄せていたことから、

その遺族によって高橋邸は町へ寄贈されました。

 

 

 

 

では、中に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

入館は無料です。

 

 

 

 

 

玄関正面に、高橋龍太郎像

 

 

 

 

 

館内を簡単に案内、説明して下さいました。

 

 

 

 

 

高橋龍太郎氏は、ビール製造技術者から経営者となり、

「日本のビール王」と称されました。

 

 

 

1875年(明治8年)に愛媛県の造り酒屋に生まれた高橋は、

第三高等学校(現在の京都大学)工学部を卒業後、大阪麦酒に入社。

ドイツに留学し、日本人として初めてビール醸造を学びました。

 

1906年、大阪麦酒・日本麦酒・札幌麦酒の3社が合併、大日本麦酒が発足、

1937年には取締役社長となりました。

 

終戦直後の1949年、大日本麦酒は、

日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割。

 

この間、1946年に貴族院議員を任じられたが、

翌年1947には第1回参院選に転じました。

 

 

 

 

 

 

財界人として日本商工会議所会頭、

政治家として、第2次吉田茂内閣の通産大臣も務めた高橋氏は、

サッカーと野球の世界にも大きな足跡を残しました。

 

 

サッカーについては1947年、日本サッカー協会の会長に就任。

 

野球では、プロ野球の高橋ユニオンズのオーナーを務めました。

ユニオンズは、当初約束された援助を受けられず、成績は低迷、

資金難が続いたが、高橋は私財でまかない、

自邸を売却して資金をつくるほどでした。

 

高橋ユニオンズは、名投手スタルヒン(日本初の300勝達成)や、

佐々木信也(新人でのベストナイン選出)などが所属していたが、

1954年、高橋ユニオンズ(1955年より、トンボユニオンズに改称)は、

発足からわずか4年目で解団しました。

 

 

 

 

 

 

 


和室

 

 

 

 

 

 

 

 

和室は喫茶室にもなっていて、お庭を見ながら、飲み物を頂けます。

 

 

 

 

 

高橋邸の離れに、泊まることが出来るそうです。

 

 

 

 

 

外に出て…カメラ

 

 

 

 

 

文化交流ヴィラ高橋邸の詳細はこちらで…

 

 

 

 

 

このあと、内子座に向かう途中、

数人が店内に入って行ったので、何のお店か見てみると…

 

 

 

 

 

洋食のお店です。

 

 

 

 

内子さんぽにも載っていて、とても美味しそうだったので、

ここで食べることにしました。

 

 

 

 

お料理が来ました。音譜

 

 

 

 

 

主人はまごころランチ(税込1200円)

 

 

 

 

 

私はステーキ丼(税込1000円)

 

 

ごちそうさまでした。

お肉が柔らかくて、美味しかった~音譜

 

地元に愛されるお店のようで、次から次へと人が来ました。

 

 

この後、内子座に向かいます。

 

続きは次回に…