これはかつてブログでも述べたが、日脚連主催の特別講義で、尊敬する倉本聰先生がおっしゃったことだが、

「人間の美しいところなどつまらない。むしろ『やましい』ところに注目しなさい。そこにドラマがあるんだ」

 

それでふと連想したのだが、『天空の城ラピュタ』で、幽閉されたシータと隔離されたパズーに対し、ムスカが、

「あの娘のことは一切忘れたまえ。金は出す」

と、「口止め料」を払う場面がある。

次のシーンでは、パズーがその二束三文の金を手に家路に就き、道中で思わずその硬貨を投げ捨てようとして、結局できずに持ち帰るという描写がある。

これが途轍もなくいいのだ。パズーのやましさ、情けなさを克明に表している。

 

その描写があってこそ、家に帰ると待ち構えてたドーラ一家が「シータをどこへやった!?」とパズーを詰問し、シータはティディス要塞にいると告発して、加えて「僕も連れてってほしい!」と、海賊たちと共にシータ救出に向かうのだ。

 

硬貨を投げ捨てられなかったパズーの「やましさ」が、逆にシータへの想いを倍増させるという、出色のドラマがここに展開されている。

 

 

この描写には到底追いつくはずもないのだが、拙作『薄暮』でも、主人公佐智と祐介が随分といい仲になった折、祐介の描いた「初恋の人」のスケッチが佐智に見つかり、そのやましさに途端にギクシャクした空気になる、という描写を入れた。

ここからはネタバレとなるが、最終的に祐介は佐智の肖像画を描くことで思い出を「上書き」し、佐智の心を掴むこととなる。

 

 

人間は神ではない。時に現れる醜さ、情けなさ、そしてやましさが、人間の心を強く、優しくする時もあるのだ。

しかし現代のエンタメ、特にアニメでは、それを徹底して忌避するような、あたかも「こんな完璧無類の崇高な描写をする我は神である!崇めよ!」とでも言わんばかりの、カルト臭ムンムンの思いあがった描写が散見される。

倉本先生にとっては噴飯物であり、他の観客・批評家も、それくらいは本能的に察知するのだろう。

「でっちあげられた神輿」に載せられた人間を、冷ややかに見る傾向が今出来つつあると思う。

かつてパッキー小林氏とネット上で対談した際も、「なんかハッピーな宗教団体が作ったアニメみたいですね」という言説に裏付けられた風潮が、今大衆の中でも、本能的ではあるだろうが、浸透しつつあるように思う。

どれだけ大々的に宣伝をしても、権力を使ってマスメディアなどで煽ったとしても、さすがにそこまで大衆はバカじゃない。「たかが」アニメごときで、そこまでコロッと行ってしまう人間はごく限られている。

みんなが、それぞれやましさを持った、血の通った人間だからだ。

 

 

あまり難しい話はしたくないのだが、ヘーゲルの「芸術終焉論」で、哲学と宗教で人間の精神は既に満たされているので、芸術はもはや用済みだ、とかつて断言されたことがある(要約)。

しかし現代ではその逆で、哲学も宗教も、その欺瞞性が明るみになり悉く歪に弱体化(カルト化)し、唯一残った芸術のみが、その可能性を嘱望されている。

その使命を帯びた以上、芸術が宗教寄りにも、そして哲学寄りにもなることは、もはや許されないのだ。

 

偉そうな学校を出た割りにそういうことを学んでないバカ、あるいはアニメの役目を自覚して来なかったバカどもは、えてしてこういう「自分は悪くない!むしろこんなに清いんだ!尊いんだ!」という強迫観念に逃げ込む。

自意識の高さを自慢したいのだろうが、そんなもの、今時の普通に生きている普通の人間には、簡単に見透かされることだ。

それも解らない超ド級のバカが、この業界に異常に増えた。やがて某統一的な教会ではないが、政界と癒着して、自分のカルト性を更に誇示するケースもあるのではないだろうか?(なんかそんな雰囲気も見え隠れするが)

 

 

アニメはこんなところからも衰退しつつある。

こんな茶番を繰り返すくらいなら滅んでも一向に構わないのだが、ならばヘーゲルの唱えた「人間精神の拠り所になるもの」とは、一体何になるのだろう?と若干、不安に思う。