これはさすがに師匠に怒られるかな……。
僕が京都アニメーションを退社した後の話だ。
退社して一年後、僕は『かんなぎ』という作品を準備中で、正直言うと共同制作(というか元請け)のA-1 Picturesの制作能力に疑問を持っていた。どうも有象無象の、名前だけはいっちょまえのアニメーター達が出没していて、どこか怪しい(特に#2)。
しかしOAまでは時間がない。僕は焦っていた。
僕は独立して最初の監督作に賭けていた。
これを失敗しては、何もかもが御破算になってしまう。僕を慕って京アニを出てきてくれたメンバーも空中分解だ。
ある日、僕はある人に電話をかけた。
それが師匠、木上益治だった。
「こっそりこっちの仕事を手伝ってくれませんか?」という相談だった。
今思うとまぁなんて恥晒しな、そこまで師匠におんぶにだっこか??と思えなくもないが、当時の僕はそこまで追い込まれていた。
何より僕が立ち上げた新会社「Ordet」に参加してくれたメンバーの疲労の蓄積も感じていて、このままではいけない、と思っていたのも事実だ。
師匠は、
「とりあえず会わない?」
と、僕を誘ってくれた。
場所は師匠の自宅の近所、白い壁の中華料理屋という記憶があるので「餃子の王将」かな?と思っているが、真偽は定かでない。
そこで約一年ぶりに膝突き合わせて、じっくり話をした。
結果としてはまぁ、皆さんお察しの通り、にべもなく断られた。
我ながら無謀な依頼をしたものだ。
しかし、そこで師匠が、一言こう呟いた。
「僕がもう10歳若かったら、君たちと一緒に会社を出たかもなぁ」
リップサービスが得意な師匠のことだ、いつもの戯言を言っているんだ、とその時は思ったが、しかし今更になって考えると、嘘の吐けないのも師匠の癖、何か腹に一物持っていた、と考えられなくもない。
師匠もまた、『らき☆すた』事件での会社の判断に、賛同してはいなかったからだ。
あれは、本当に会社を二分するかも知れない、大変な事態となった。
多くの人から進言・助言を受け、ぶっちゃけ言うと「京アニを辞めないでくれ」と慰留された。
僕は悩んだ。しかし僕を支持してくれているスタッフはもう堪忍袋の緒が切れていた。
苦渋の決断で、僕は京アニを出た(詳しくはnoteにて)。
これが師匠と会って話をした最後の機会となった。
運命の綾と言うのか何と言うのか、本当に人間関係というのはほんの一瞬のタイミングのずれで大きく変わるものだな、と、そう思った。
こんな破天荒な弟子によく師匠も付き合ってくれたものだ。
アニメを、アニメ業界を、アニメを築き上げた数々の才能を知り尽くしていたから、なのかも知れないが。