この件に関しては、少なからずショックでした。

と同時に、「俺はどういう立場でコメントすればいいのだろう?」と、結構迷いました。

 

まず大前提として、原作の映像化においては「作品を預かる」という姿勢が絶対です。

アニメもかつてはバカどもがやり散らかして、「原作レイプ」とファンに罵られ続けて、ようやく今そんなことがなくなって来ましたが、実写業界はまだその悪癖が残っています。

 

これは長年に亘る大問題だと言えるのですが、実はそこまで複雑な構造の問題ではなくて、意外と簡単な問題だと思います。

原作者と制作者、この間に入る「プロデューサー」が、単にバカなのです。ていうか、要らないのです。

 

僕はアニメ業界で昔から「原作者と制作者との衝突」は見てきました。突然、監督が降板し、同時に制作会社のプロデューサーとTV局のプロデューサーも降板する、という前代未聞の事態も見てきました(何かバレるかな)。
 
なんでこんなことが起こるんだろう?と疑問に思っていたところに、京アニの(事実上の)初元請作品『フルメタルパニック?ふもっふ』が制作されることになり、何と原作者の賀東招ニ先生がわざわざ本読み(脚本会議)にこまめに参加していたのです。
僕はいち演出でありながら急速に賀東先生と仲良くなり、武本監督と三人で、新宿で「焼酎対決をしよう!」と誘われて、朝までなんとか耐えたのですが、別れた瞬間に街中のいたる所に吐きまくったのを覚えています(すいません)(てかどうでもいい話か)。
 
しかし、この関係いいよな、と直感的に思い、特に武本さんと賀東さんのあまりのラブラブぶりが羨ましくて、僕がシリーズ演出を担当した『涼宮ハルヒの憂鬱(一期)』では、構成会議から各話の本読みに至るまで、「絶対に原作者立ち合いでなければならない!」と、谷川流先生に宣言しました。
谷川先生は関西出身でもあり、今はコロナもあってちょっと疎遠ですが、頻繁に梅田で飲み明かす仲となりました(必ず梅田)。
そこから『らき☆すた』『宮河家の空腹』の美水かがみ先生、『かんなぎ』の武梨えり先生、『戦勇。』の春原ロビンソン先生と、原作者には必ず「構成から本読みまで絶対参加すること!」と通達しました。
同時に、もし参加できないなら、どう改変されても文句は言わない!後から「これは原作と違う!自分の思っていたイメージと違う!」と絶対言わない!と言っておきました。
するとやはり、自分の作品が大事なのでしょう、皆さん打ち合わせに必ず参加してくださいました。
ましてトラブルや諍いなんかただの一度もありませんでした。原作者と制作者が直接膝突き合わせて話をして決めるのだから、後から文句は言えないのです。 
 
 
だから、こういう事件を見るにつけ、「どうして原作者と制作者が一緒に作らないのだろう?」と心底思います。
TV局の昭和的な旧態依然の考え方がこびりついているとしか思えません。
脚本家の方々も何を考えているのでしょう?「餅は餅屋に任せとけ!」てな気分なんでしょうか?
いや、その餅を杵持って突いて作ったのは、間違いなく原作者なのですが。お前らはそこにせいぜい餡子やらなんやらを入れるだけだろ?
「アタシは天才なんだから、こんな原作徹底的に作り直してやる!」なんて思っているのならば最低最悪です。ただ邪魔な勘違いババアなんだからこの業界にいなくていい。本当に。
下手すりゃ著作権法違反です。
 
脚本家(特に女性)のモラルの無茶苦茶な低下を懸念します。
 
とは言え、今回の問題の中核は、「原作者と制作者との間に入る人間が無能」、これに尽きます。
特に近年は、製作委員会のプロデューサーの質が著しく低下しており、調整役としては完全に無力であると言わざるを得ません。
 
 
だからこの問題、難しいようでいて、実に改善は簡単なんです。
まず姿勢として「作品を預かる」、そして己の無駄なプライドは捨てる、そして何より、原作者と制作者との距離を近づける、そこからではないのでしょうか?
風見鶏的にドヤ顔をして間に入り、ワアワア喚き散らすだけで結局何の調整もできないプロデューサーは、一人でも多くこの業界から去るべきです。それは実写もアニメも同じです。