昔『おもちゃ』という映画があって、深作欣二監督が京都の舞妓を描く!?となって観てみたら意外と面白く、富司純子など東映らしい溌剌とした演技の中でもしっとりと京都の風情を描いたもので、同じく花街ものの名作『祇園囃子』とはまた違う味わいをもたらしてくれたのだが、
もちろん今回はそういう話ではなく。
「ヤマカンはネットのおもちゃだからな!」とバカなアンチが言い始めて唖然となって、今もそんなことを言っているようだが、それに人間とは思えない異常さを感じて以来10数年、僕は国内のありとあらゆるものが「おもちゃ」になってしまったように思う。
「オタクの歪な発想がそのまま権力者の発想だった。オタクの狂気がネトウヨ・自民党と結びついた」というのが僕の持論だが、さてそれは単なる妄言だっただろうか?
上の記事でも明らかだが、権力者が日本の民主主義を破壊し、日本そのものを「おもちゃ」にする、そんな時代が来ている。
しかし市井の日本国民は、自分たちが「おもちゃ」にされていることにまったく気づいていない。いや、あるいは気付かぬフリだろう。
SNSの日本国内での異常な発達によって、いろんな人間を「おもちゃ」にすることに慣れきってしまったからだろう。
Twitterでも言われていることだが、どうして保守論壇・ネトウヨが、日本を散々「おもちゃ」にしようとしている旧統一教会に物申さないのだろう?
貧困に喘いでいる国民を「おもちゃ」扱いするかのように更なる増税をちらつかせ、ただただ自分がイキリ倒すためだけに国外バラマキ外交を続け、自国のカネを「人生ゲーム」扱いするような首相に物申さないのだろう?
誰がこの国を護ろうとしているのか?
誰が自国民を、そして自分自身の生活を護ろうとしているのか?
すべて「おもちゃ」のようである。
ままごと遊びのようである。
そんな自分たちがヤマカンはおろかいろんな著名人、あるいは旧民主党など、いろんなものを散々「おもちゃ」にし続けたのだから、今自分たちが生活の危機に立つまで「おもちゃ」にされていることを、どうしても認めたくないのだろう。
彼らは自分たちが野垂れ死ぬまで、自分が「おもちゃ」として弄ばれることを選ぶのだろうか?
結論から言えば、選ぶのだろう。
これが第二次大戦で国を焦土とした、幼稚な極東の島国・日本の思い上がりなのだ。
「新しい戦前」は目の前に来ている。
しかし、それは戦争を介さず、懲りもしない破局へと向かうだけであろう。
日本が二度目の「焦土」を迎えるのはもう目の前だ。
あくまで日本人の敵は日本人だ。
それは明治維新以降まったく変わっていない。