「最後の巨匠」と信じてやまない、勝手にそう思い込んでいる偉大な指揮者が、亡くなった。
「吹奏楽の父」と称しても過言ではない、丸谷明夫先生である。
改めて、謹んでご冥福をお祈りいたします。
丸谷先生については、今まで書くのをずっと控えてきたエピソードがある。
失礼のないように、と控えてきたのだが、死人に口なしとはなんという罰当たりか、しかし先生の破格の巨匠ぶりを記録すべく、書かせてもらう。
実は9年前、僕は丸谷先生と淀川工科高等学校吹奏楽部を丸一日取材している。
2012年、当時学研から発行されていた吹奏楽雑誌「アインザッツ」の密着取材として、特別に同行させてもらったのだ。
夜9時過ぎに最寄りの駅に着いて、付近のホテルに一泊の予定だったが、丸谷先生から「今からでも来なさい」との連絡。
学校付近のレストラン「さと」に赴いた。
先生は何人かの大人たちと食事中だった。
それは確か「3000人の吹奏楽」の打ち合わせとして、関西テレビのスタッフだったと思う。
出会い頭から凄かった。
先生は携帯で何やら神妙そうな話をしている。
それを暫く待って、先生は電話を切り、挨拶もそこそこに、
「いやね、今年から普門館が使えなくなりましてん」
いきなりなんてショッキングなニュース!!
先生もさすがに余裕がなかったのか、呆然とした我々取材班を置いて深刻な会話が始まった。
我々をもてなす予定だったのだろう、「皆さんも何か頼んでください」と仰ってくれたが、とても頼む気になれない。
それから程なくして、「秘書」と呼ばれる吹奏楽部員がやってきた。
明日の練習メニューを記したノートを先生に提出しに来たのだ。
先生、それを読んで即座に、
「アカンわ、こんなん穴だらけやないかい!」
と一喝、そのページを一気に破り捨ててしまった。
怖えぇぇぇぇ!やっぱり怖い先生やったんや!一同戦慄が走った。
翌日、先生の来る前から取材だ!と、朝6時にはもう淀工に着いていたと思う。
既に個人で朝練をしている部員が何人かいた。
そこで即座に気付いた。
「あれ、こんなに朝練してる人少ないの……?」
練習風景もなんとなーくマイペースというか、適当で呑気な雰囲気。
僕の思い描いた「ザ・スパルタ」な淀工のイメージはそこになかった。
8時くらいに丸谷先生が登校してきた。
ここからが「丸谷劇場」のスタートだった。
先生はそこからどこかのイベントのための「花組」の合奏、そしてコンクールメンバー「星組」の合奏、そして更にはOBバンドの合奏、そして更に更に「3000人の吹奏楽」のための特別編成のバンドと、実に半日かけてタクトを振り続けたのだ。
僕にも指揮経験があるが、こんなこと余程の体力と根性がないと不可能だ。
休憩は各合奏の合間の30分だけ。
必ず近くのカフェで一服した。
その際に我々があれやこれやと質問するものだから、実質休めていない。
それでも先生は優しく丁寧に、そして情熱的に質問に答えてくださった。
合奏内容も随分と想像と違っていた。
「嵐」メドレーをやってる最中、ふと合奏を止めて、
「そこの低音パートな、『ズン、ズン、デベソだズン、ズン、デベソだ』としか聞こえへんねん」
即座に場内爆笑。
しかしこの「ズン、ズン、デベソだ」というのが頭にこびりついて離れない。部員もそうだったろう。
イメージとアーティキュレーションの統一を一瞬で済ませる、まさに「巧の技」だった。
毒舌も健在だった。
パーカッションパートの男子が、
「なんかちょっと悪いんやないかと思いますー」
「何が悪いんや?」
「(曲の)頭です」
「お前もな」
思わず一人で笑ってしまった。
そしてとうとう合奏途中で、先生は僕の紹介をしてくださった。
当時僕は吹奏楽小説『アインザッツ2(1は単行本化)』を連載しており、そこでまさに「『淀工がモデルの強豪校』を主人公が見学する」という描写を書いてしまっていたのだ。またなんというハイパーリンク!
先生はその部分をわざわざ冊子手にした部員に読ませた。
部員は「ああ~」と笑ってくれたが、僕はもうパニックで、肝を冷やした。
「まぁ当たらずとも遠からじ、やな」
先生のお許しが出て、思わず胸を撫で下ろした。
休憩中の話は多岐にわたった。
「実はね、昔乳がんを患いまして、右の胸肉をオムライスくらいの大きさで取ってますねん。だから腕がもう上がりませんねん」
その右腕は、長袖で誤魔化していたが良く見れば確かに手の甲までビッシリと湿布が張ってあった。
これは数々の映像で確認できるが、確かに晩年の先生は胸から腹の辺りの高さで指揮棒を振っていた。
たまに高く右腕を上げることもあったが、相当辛かっただろうと思う。
そして合奏中に気付いたことも訊いてみた。
なんとどの合奏も、最初の挨拶がないのだ。いつもダラ~っと始まる。
普通の強豪校ならば開始時「お願いします!」とか、怒られたら全員で縦の線まで揃えて「はいっ!」とか、部員が訳も解らず叫ぶというのがお約束なのだが、淀工には一切なかった。
「先生、合奏の最初の挨拶ってないんですね?」
先生はそこから一気に熱の籠った口調で、
「あのね、そういうのあきませんねん、強制された感じになるでしょ?そういう強制されて何かやる、っていうのはあきませんねん。強制されてやることには自分の気持ちが入りませんから」
そこからなんと指揮法の話に膨らんだ。
「良く、予備動作でサン、ハイ!ってやりますやろ?あれもダメですねん。指揮に頼りっぱなしになって、自分の責任で音出しよれへんのですわ。絶対勢いがつきません」
そこからは指揮法の講義。身振り手振りを用いて、
「サン、ハイ!やなくて、(少し間を溜めて)ハイ!こうやらなあきませんわ」
あの時の生き生きとした先生の表情を思い出す。
本当に教えるのが好きなんだな、と。
話は淀工をお茶の間に知らしめた「笑ってコラえて!」の話にまで及んだ。
ある部員に対し「おいまだ生きとんか!死ね!」と発した先生の一言だが、当時結構「炎上」したのだろう。
「あれね、実はあの日の朝に彼が『もう死にたい』みたいなことを急に言い出しましてね、『アホか!死ぬなんてことを軽々しく口にするな!』って怒ったんですわ。その延長上としてアレがあったんですけど、結構誤解を受けて……」
文脈を読んでくれなくて誤解されるのには、正直深く共感が持てた。
圧巻は最後の「3000人の吹奏楽」の合奏(分奏)。もう19時はとうに過ぎていた。場所は建て替え前の守口市市民会館。
僕は最終の新幹線ギリギリまで粘って合奏を見続けていた。
『アルメニアン・ダンス パート1』の合奏だった。学生から一般人からの寄せ集めのバンドで、サポート役として淀工のメンバーも少し入っていたが、この寄せ集めのメンバーでも先生は手を抜かない。
もう半日振り続けているのに、ますますテンションが上がっているようだ。
その中の一曲、「アラギャズ山」という部分の一番美しいクライマックスで、先生は思わず声を荒げ、
「ここ一番好きな箇所ですねん!一番大切にしたい場所ですねん!もっともっと!気持ちを込めて!歌って!」
半日振り続けたとは思えない声を出した。
たった一日の取材とは言え、ここで得たものは計り知れなかった。
それ以降となるとTVの特集やYouTubeの動画でしか先生の雄姿を見ることはできなかったが、多少誤解があろうとも裸一貫、剥き出しの姿勢で音楽と、そして人間と全力でぶつかる先生の気迫、音楽に殉じる覚悟は十分伝わってきた。
だから僕は、先生を「最後の巨匠」と呼ぶ。吹奏楽だけでなく、プロも、オーケストラ音楽全体でも、「最後の巨匠」だ。
先生と一瞬でも巡り合えたことを神に感謝したい。
繰り返しとなるが、ご冥福をお祈りいたします。
天国で新しいタクトを握っていますように。