2,3年前に日脚連主催の特別講義を受けた時、講師の倉本聰先生はこう言った。
「僕はね、人間の立派なところを描くより、ケチなところを描いた方がよほど面白いと思うの」
「ケチ」という言い回しが面白いと思った。
最近になって『北の国から』の第一シーズンを観直した(約20年ぶりか)。
1時間ドラマ×24話だ、もう長い尺の映像を観るのが億劫になった僕だが、しっかり観た。
やはり素晴らしいドラマだ。
そして、人間の「ケチ」な部分がよく描かれている。
とにかく小ズルい純だけでなく、それを富良野で教育しようと奮闘する五郎の「ケチ」なところもちょくちょく出てくる。
登場人物、誰もが少しずつ「ケチ」な面を持っている。
それが故に揉め事や事件が起こるが、決して優しさや甘えではなく、「それが人間なんだ」という、ある種の開き直りでドラマは進む。
「それでも生きていくしかないんだ」と。
同様のことを、さっき『じゃりン子チエ』を観て思った。
原作付きではあるが、高畑勲の創作理論もかなり近いのではないだろうか。
これもやはり、どうしようもない親子が「それでも生きなしゃあないやん」とけなげに頑張る物語。
思わず涙してしまった「金賞!チエちゃんの作文」の回では、最後にテツが呟く「嘘つき……」の一言がこれ以上になく重く、心の底まで響き渡る。
どうしようもないチンピラ・テツだからこそ描ける重厚なドラマなのだ。
僕はこのようなドラマが作りたい。
「人間の綺麗な面だけ見ていたい!」と愚図ってばかりのオタクたちにはもう通用しないのだろうか?
そこまで言うなら、彼らは自分の顔を鏡で見たことがないのだろうか?見たら即目を潰したくなると思うのだが。
ドラマの力が刻一刻と弱くなっているのかも知れない。