聲の形(LINEBLOGより転載) | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba
     
     
    なんか最近爆弾が並んでいるような・・・。
     
     
    やっぱり作品批評はしたくない。
    昔は連載も持ってたけど、余りに意味がないからやめた。
    「アニメを語る」という行為自体に、意味を持てなくなった。
    だから一時期Twitterもやめてた。
     
    でも最近になって、周囲の人から「語り、そして作るのがあなたのユニークさだよ」と教えられて、じゃあ騙し騙しやってみるか、と思い、ブログを開設した。
     
     
    しかし知り合いの、それも後輩の作品は特にとやかく言いたくない。
    身内の批判はカッコ悪い。
     
    でも古巣を辞めてはや10年、もう赤の他人として扱ってもいいのかな?お互い。
    歳も取ったし、キャリアも積んだ。
    そして世間に揉まれ踏まれもした。
     
     
     
    『聲の形』を観た。
     
     
     
    ずっと監督の心象風景を見ているかのような気分だった。
     
    ドラマはあってないような、実際終盤はよく覚えていない。
    演出的な人の出し入れも雑だ。
    あの赤毛の男子は一体何者だったの?とか、そんな展開上の疑念も尽きない。
     
     
    しかしこれ程、監督の心の叫びが聞こえてくる作品は、近年稀なのではないだろうか。
    いや、アニメ作品では滅多にない、それこそ『(旧)エヴァ』以来かも知れない。
     
     
    原作は読んでいない。
    久しぶりの体験をした。
     
     
     
    僕は最近、監督はもっと素直であるべきだと思っている。
    言いたいこと言っていいじゃない、時には愚痴をこぼしてもいいじゃない。
    でなきゃ、もう持たないよ。
     
     
    作品に嘘はいけない。
    しかし、最近は大嘘つきの作品ばかりだ。
    嘘ついて、作品を作って、日銭を稼いで、くたびれて、
    それが監督の仕事か?
    何より、そうやって作られた作品が、面白いか?
    嘘の表現が、客に響くか?
    失礼だと思わないのか?
     
     
    『聲の形』は、実に正直な表現だった。
    まるで彼女のオリジナルかと思ったくらいだ。
     
    声にならない声を懸命に発し続ける硝子は、そのまま彼女の生の声だ。
    そのようにしか聞こえなかった。
     
     
    彼女のパーソナリティを知ってるからそうなったのか?
    やっと「作品からヤマカンの顔がチラついて云々」という感覚が解った気もする。
     
    しかし、それでいいじゃないか。
    作品は、今でも監督の顔を映す「鏡」であるべきだ。
     
     
     
    彼女は、今も正直だ。
    それは、とても素敵なことだ。