内なる敵と負の祝祭――震災とコロナウイルスのあいだで

 

 

これは語るのが難しく、もうしばらく経ってからしようと思っていたが、それを許してくれる時間はなさそうなので、今する。

 

かの原発事故による放射線とウィルスとの類似性が今取り沙汰されている。

特に前者についての議論は(悪い意味で)出尽くした感があり、現地・福島でも、もはや地元の方々が途方に暮れている様を、今日にいたるまでずっと目にしてきた。

 

僕がこの両者に対する姿勢はまったく一緒で、今も昔も変わらない。

 

・広範に拡散・流行した以上は、どこにいてもリスクがあり、どこへ避難してもしょうがないのだから、大騒ぎしない。

・目に見えて明らかに被害を受けた(受ける可能性のある)地域・拠点には重点的な対策を取り、精神的・経済的ケアを怠らない。

 

これ以上の思考・思惟は無駄だと考えるようになった。

『薄暮』を作って、なお確信した。

 

だから福島の方々にも、「ずっと放射線被害や風評被害を恐れてもしょうがないのだから、それを笑い飛ばすくらいの開き直りがあった方がいい。『福島どうでしょう』みたいな番組を作って、第一原発をのほほんと訪れてみるとか」みたいな提案をしてみた。受けは悪かったが……。

 

 

福島の方々がナーヴァスになるのも、コロナ医療従事者がナーヴァスになるのも理解はできる。しかし、それを余り深く共有したところで、国民レベルの思考停止を生むだけで、僕たちの「日常」が崩壊するだけだ、と思う。

だから『薄暮』では、第一原発から数十㎞しか離れていない街の、何でもない日常を淡々と描いた。

 

どんな国難であろうと、国民全員に「日常」を捨てよと強いるのは、僕は何よりの愚策だと思っている。

それを強いたら日本という国は途端に全体主義的に暴走し、どんな無茶なことも(戦争であろうと)平気でやってしまうのだ。

 

安倍政権はまさに今、震災やコロナ禍でおおいに動揺した国民性を見抜いて、己のカルト的な欲望を実現させようとしている。

だから国民は平時と変わらぬ冷静さで、この国の全体主義的気質を徹底して監視しなければならない。

 

悲劇や窮状を、思考停止の契機としては決してならない。

僕たちはそれを戦争から学んだはずなのだ。

 

まだ75年しか経ってないのに、すっかり忘れてしまうのは実に愚かだ。

今こそ日本という国が試されている。