https://www.nicovideo.jp/watch/sm15600075

 

 

僕のことだからニーチェの話か?と思われた方、ご安心を。

僕の大学時代の自主制作作品の方だ。

 

大学の授業で「ルサンチマン」という単語が出てきて、真っ先に「特撮ヒーローっぽいな」と思い、ずっとイメージを温めていた。

そして大学四年の時、友人Yが「アニメサークルにいる男子たるもの、特撮を撮ってないとはどういうことか!」と怒り出したので、『ルサンチマン』の構想がようやく形になり始めた。

しかし、ネタが哲学的すぎて、なかなか膨らまない。

 

Yはそこで、

「どうせさ、俺らがやるんやからさ、オタクのことを描けばええんちゃう?オタクの怨念がつまり『ルサンチマン』ってことでええんちゃう?」

この一言で、一気にすべてが具体化された。

 

という訳で『怨念戦隊ルサンチマン』は完成した。

 

今ネットでも上がっているので、ご覧になった方は意外と多いと思う。

1997年の作品だが、これが受けに受けた。

ビデオも飛ぶように売れ、製作費を回収したどころかえらい額に膨れ上がり、「このままでは俺たち金でおかしくなってしまう!」と後の同好会メンバーが自ら生産中止にしたというから驚きだ。

 

この作品、もちろん「オタクの一方的で歪んだ怨念」を相対化し、ある意味皮肉った作品となっている。

最初の話数なんか、隣の部屋でヤりまくっている大学生を殺すだけの話だ。逆恨みの八つ当たりだ。

しかし、これがオタクにも一般人にも見事に受けた。

何より、こんなにオタクを茶化してオタクたちは怒らなかったのか?大歓迎だったのだ。

 

なぜか?

オタクは自分のコンプレックスに自覚的だったからに相違ない。

そして、それを補填するための「理性」があった。

自分たちが皮肉られても笑い飛ばせる心の余裕があったのだ。

 

今のオタクが観たらどう思うだろうか?

「オタクをバカにしやがって!」とでも怒り狂うのだろうか。

 

しかし、少なくともあの当時は、まったくそんな声はなかった。

対してパンピー(リア充)も、これをダシにオタクを差別するようなこともなかった。

 

岡田斗司夫氏を引用すると、かつてのオタクとは「世間からすればちょっと異質で異様なものを趣味とし猛烈に愛するが、その異質さには十分自覚的で、世間以上の知性と理性を身に着け世間と対峙する『選ばれし者』」だった。

 

今は違う。知性と理性が完全に喪失したのに、『選ばれし者』の意識だけは残ったのだ。

それが支配欲と暴力性を肥大化させた。

 

 

『ルサンチマン』を生み出し、業界に入ってからも『ハルヒ』までは「山本さんの代表作!」としてからかい半分で会社の後輩たちで回し観されていた。

大学時の自主制作が代表作とは、俺はまだまだプロじゃないんかな……とは思っていたが。

 

それに取って代わったのが『ハルヒ』だった。

僕はこの成功で、『ルサンチマン』を笑い飛ばせるオタクなら、『ハルヒ』によって解放されて、一般人に溶け込み、きっと幸せに生きられるだろう……と期待していた。確かに。

 

しかし、ちょうど『ハルヒ』を発表した時、岡田氏は「オタク・イズ・デッド」の講演を行った。

僕の信じていた「オタク民族」は、既に滅んでいたのだ。

 

今いるオタクは、僕の知っている、あるいは信じていたオタクとはまったく違う。

SNSを武器に「俺たちのためにアニメはある!」と、絶えず業界やクリエイターを恐喝し攻撃する異常者集団と化した。

そこには知性も理性も、愛情すらもまったくない。

 

『ハルヒ』は敗北した。いや、登場も敗北も避けようのない運命だった、とでも言うべきか。

 

 

「自分はオタクだ!」と思い込んでいる人、一度『ルサンチマン』を観てください。

そこで怒ることなく笑い飛ばせることができるなら、あなたは確かに、僕らや上の世代と同じ種の「オタク」なのだろう。

かつては本当にそうだったのだ。

そうでなければ、「オタク」と名乗るだけの別種の人間だと考えた方がいい。

 

『ルサンチマン』が、ひょっとすると昨今のオタク論議を整理するのに効果的な「試金石」となり得るのかも知れない。

そして僕が『ハルヒ』以降ずっと叫び続けている「警告」が、ちょっとでも解るかも知れない。