アニメ評論はなぜ「無いように見える」のか? アニメ雑誌と評論の歩み――アニメ評論家・藤津亮太インタビュー
ねとらぼが実に挑発的なインタビューを試みた。
氷川竜介や小黒雄一郎なら絶対受けないこのインタビューを、藤津さんが敢えて受けた。
まぁ根が正直者なのか、結論を最初の方に言ってしまい、「アニメは映画や小説のように評論なんかできまっしぇん!!」ということの理由というか言い訳を延々語っているだけだ。
しかしメディアの方も「作りにくい実感はない!」のだそうだ。
アニメジャーナリズムはやはり脳味噌お花畑だったようだ。
そんなの百も承知だが。
じゃあ君ら、何のためにいるの??
「ユーザーが評論を求めていない」と言いながらも、未だ勢いが衰えないまとめサイトの恣意的・故意的な人心操作は見て見ぬ振りしているのだろう。
要は、自分に自信がないだけなのだ。
評論家は本来、必要である。
まとめサイトの衆愚制に対抗するためにも必要だ。
そして、学術研究としての意味を敢えて抜いて考えると、「客寄せ」のために必要だ。
評論家は審判でもなければ陪審員でもない、いわば「宣伝媒体」だ、というのが僕のずっと前からの考え方だ。
褒めようが貶そうが、それは実は些細なことであり、要は映画ならどれだけの人を劇場に向かわせるか、小説ならば一冊でも多くの本を買わせるか、そこに役立たない限り、評論家の意味はない。
かつて映画評論で言うならそれが淀川長治だったり、音楽評論なら宇野功芳だったりしたのだ。
宇多丸も、アニメ評論家に比べたらまぁまだマシだろう。
評論の「技術」さえあれば、評論は求められるのだ。
ユーザーに必要とされているから評論をするのではない、むしろユーザーを啓蒙するために評論があるのだ。
この本末転倒の考え方は、確かにもはや「評論家など要らない」のだろう。自分自身で言ってるのだから世話ない。
それはニーズの問題ではない、能力の問題なのだ。
僕はPLANETSで連載を抱えているが、「評論家としては語りません」と、前もって言ってある。
ただ、正直言うと、アニメ評論を本気でやらせたら、岡田斗司夫さんの次に上手いだろう。宇野さんよりも上手いと思う。
ニッポンじゃあ二番目だ。
しかし、今業界をウヨウヨ徘徊している評論家モドキやライターモドキと一緒にされたくないから、もうしない。
あと、どうしても言っておきたいのが、
テレビアニメって、今でも見ようと思うと全部見られるんですよ。
TVアニメは今や年何百本もあるのに、本気で言ってるのだろうか?
こういったピンボケ具合が、彼(ら)の言説のすべてなのだろう。
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