嫉妬(LINEBLOGより再掲) | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba

    (2019/1/18 22:53 エントリー)

     

     

    最初にした「嫉妬」を思い出した。
    それは小五の春だった。
     
    「彼女」は転校生だった。
    なんとまぁ才色兼備、吉永小百合のような風貌ととんでもない頭の良さ、そして運動も音楽も万能と、非の打ちどころのない少女だった。
     
    その彼女が、僕がなんとなく通い始めた塾で、一緒になった。
    当時は勉強なんてどこ吹く風の僕だったが、ここでスイッチが入った。
     
    「彼女にだけは負けたくない」
     
    そう思ってはみたが、結局勉強に身が入らない。
    あっという間に彼女は優秀なクラスへ、僕は劣等生のクラスへと別れてしまった。
     
    なんか腹立つ。
    どうにかできないか?
    僕はおおいに嫉妬した。
     
    しかし、それは、所謂世間の言うところでの「初恋」だったのだ。
     
    小六になり、僕は彼女の志願する中学校を聞き、同じ学校に入りたい!入らなければ俺のプライドが許さない!!と、急に思い立ったように猛勉強し始めた。
    一緒に受験し、なんと一緒に落っこちた。
    その後一緒の公立中学校に入り、そこで僕は狂ったように勉強をし始めた。
     
    彼女への「嫉妬」は、いつしか「恋」と不可分になっていたのだ。
    彼女に勝ちたい、というのと、彼女と同じ学校に行きたい、という気持ちが、正直ごっちゃになってしまっていた。
     
    その後、この想いは中三まで引きずり、辛抱堪らず告白して、あっさりフラれた。
    しかしまたしても同じ高校を受験し、僕は受かり、彼女は落ちた。
     
    僕の思春期を良くも悪くも、大きく占めていたのが、彼女だった。
     
    良く「ヤマカンも嫉妬している!」と言われるが、僕にとっては原体験から考えて、嫉妬というのは「恋」なのだ。
    憧れとも言える。
     
    僕は宮﨑駿にも「嫉妬」した。
    しかし、それはあまりに大きな「憧れ」だった。
    彼のせいで、僕はアニメ監督になることを決めた。
    今でも彼に「嫉妬」し続け、一挙手一投足を追いかけている。
     
    これも結構言われることだが、やはり本当の「嫉妬」とは、憧れやその他の愛情と不可分なのではないだろうか?
    しかしながらその嫉妬心を持つ母体としての人間性が正常なのか腐っているのか、「オタクという「病」・三たび」でも言った通り、愛情の示し方をきちんと知っているか否か、それ次第で見え方が全然変わるのだ。
     
    僕の肌感覚で言うと、嫉妬した相手が落ちぶれればいい!としつこく願っているのは、正しい意味での嫉妬ではないように思う。
    それは単に、お前の狂った悪意だ。
     
    嫉妬にもその人間性次第で優劣があるのだ。