宮崎監督は先の見えないこの時代に生まれてきた子どもたちに「おもしろいものは、この世界にいっぱいある」ということを伝えたいと、一貫して子どものために映画を作ることに努めてきたということ。実際に息子が3歳のときは3歳の子どものため、小学生のときは小学生のための映画を作ろうと思っていたというが、息子たちが大きくなってからは対象を変え、『千と千尋の神隠し』では友人の娘のために作ったことを明かしている。
宮﨑御大がなんだかんだと世間に毒づきながらも愛される監督になれたのは、この一点なのだと思う。
その点彼は「上手くやった」。
僕も子供たちを楽しませたいとは思うが、結局『薄暮』もそうだが、素直に純愛だキャッホウ!みたいにはならない。
僕はやはり、宮﨑さん自身も認める「承認欲求」が、本当ビックリするほどないのだろう。
素直に楽しませて帰らせる気なんか毛頭ない。
高畑さん達が追い続けたものを、僕はこれからも継承したいと思っている。
アニメは「真実の器」だ。
一方で、この辺の違いが宮﨑さんの弱点だとも思う。
高畑さんの背中を追って「アニメに思想を!」という意気込みとは裏腹に、彼は「漫画映画」の魅力を捨てきれなかったのだ。
それが次第にオタク文化のバックボーンになっていく。
実は80年代までは富野由悠季御大の方が人気がずっと高かった。
彼がアニメ界をリードし、アニメの思想性をアピールし、岡田斗司夫さんなどの「オタク第一世代」を育てた。
しかし時代は徐々に宮﨑駿を求めるようになった。
それは実はオタクが「ぬるい現実逃避」を志向し出したのとリンクするのではないだろうか。
もちろん『ナウシカ』から『もののけ姫』に至るまで、彼の作品は時代と対峙し、その思想性で勝負しようとした。
しかし、高畑・富野に比べると、どうも甘さが見えてくるのだ。
「アニメは結局現実逃避の娯楽」であることを、彼は否定しきれなかったのだろう。
どうもアニメやオタクを語る際に「宮﨑アニメだけは別格」のような、神聖不可侵のような空気があるように思えるが、そうではなかろう。
僕は宮﨑さんこそがオタクの「劣化(ポストモダン化)」の、最初の「戦犯」だと考えている。
30年間彼の背中を追い続けた者として、これだけは譲れない。
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