絶対観てはいけないと肝に銘じていた禁断の作品『ゆるキャン△』に、とうとう手を出してしまった……。

遂に冬のソロキャンプをする決意までしてしまった。

 

とりあえず女子高生をくっつけたら何だって萌えアニメになる、というのが持論だが、もちろん玉石混交だ。

しかし『ゆるキャン△』はしっかりとした取材とクオリティーコントロールが見事だ。

どの作品もこれくらいできればアニメも安泰なのだが……(できないと「新章」になる)。

 

しかし、改めて「萌え」というものの奥深さ、罪深さを考えさせられた。

ずっと単行本が出るとなると必ず予約して買っているこの『明日ちゃんのセーラー服』もそうだ。

彗星のごとく登場した『娘の友達』もしかり。

 

僕はオタクは全否定しても「萌え」を否定したことはない。

それはただの禁欲主義であり、行き過ぎた不毛な道徳観だと感じるからだ。

しかしどうしても「萌え」を自分の性癖と強引に結びつける輩が多い(オタクという語もそうだが)。

だからフェミニストの狂気の侵入を許してしまう。

 

何にしてもそうだが、「俺こそがオタクだ!」「俺の思い通りの世界が萌えだ!」とか言うの、やめないかい?

お前の嗜好はお前だけのものだ。そんな同族意識を押し付けられても困る。

 

 

そもそも岡田斗司夫氏が悩むくらい、「萌え」の定義というのは曖昧極まりない。

例によってアニメには学者も学会もないのだから当然なのだが。

 

アニメが再興するには、いよいよ「萌え」の正体を明らかにしなければいけないのだと思う。

「萌え」がオタクの教養主義を破壊し、オタクと言う文化民族を解体し、アニメを無法状態にしてしまったのだ。

 

これもやはり「犯罪者予備軍」の「峻別と排除」のため、「萌え」の再定義を近々行おうと思う。