宮台真司氏が提唱する有名な「感情の劣化」という概念だが、ずっと違和感があった。
感情が劣化したり進化したりするか?
そこで僕はこう考えることにした。
感情は劣化も進化もしない。
元来本能や生存欲求に直結するものだ、と。
感情とは自己の保存や安定のために生じるもので、非常に原初的なものである、と。
「情状性(気分)」という考え方に近いだろう。
人間は「気分」を介して、世界とアクセスするのだ。
しかし感情はいつでも暴走する。
「ムカつく」という感情は己の個の保全のために生じたもので否定しがたい、しょうがないものだ。しかし、ムカついたから何をしてもいいって訳ではない。
そこで「知性(あるいは理性)」が登場する。
今自分の中で湧き起こった感情は、果たして妥当なものなのか?
理不尽さはないのか?
人や社会を傷つけたり引っ掻き回したりするものではないのか?
知性が感情をコントロールする。それが僕にとって一番腑に落ちる理解だ。
じゃあなんで今の狂犬ヤマカンが生まれたのか?
簡単な話だ、知性によって判断されたものに対して、感情を全乗っかりさせるようになったのだ。
特に怒りの感情は必要以上に乗るようになった。
知性が「行ってよし!」と判断したら、時に自分でも抑えられないくらいの怒りが出る。
ただし衝動的な怒りは一切ない。すべては周到に用意された怒りなのだ。
まぁそろそろ行きすぎには気をつけないといけないのだが……。
僕は高校までは非常に大人しい子だったらしい。母親の記憶が正しければ。
それは幼いなりの脳味噌で、感情の暴走を無意識に食い止めていたからだろう。
知性が優れていたと言いたい訳ではない。感情の恐ろしさを直感的に知っていたのだ。
とにかく世界や人間が怖かったという記憶がある。
自分の感情に自信がなかったのだろう。
大学で哲学を学ぶようになって、ようやく感情が出始めた。
アニメ業界に入ったらしとどに出るようになった。これは師匠のせい。
今問題なのは、知性が劣化した訳でも感情が劣化した訳でもなく、知性と感情との結びつきがあまりに弱いのだ。
だから理不尽な怒りが世界中で混乱している。
「自分の感情は無制限に許されている」という無根拠な思い込みが、ポストモダンと共に拡散された。
ポストモダンをヒューマニズムと誤解したサルトルとか。
そしてお決まりの結論に至るが、オタク世界も例外なくこの「ムカついている俺は許されている!」という危険なポストモダン信仰に毒されている。
その結果、青葉真司の逆恨みを生んだ。
今大事なのは、「その怒り、意味があるか?」という、自己への問いかけである。
知性による感情の制限である。
それを吟味し判断できない限り、どんな感情の発露も、そしてそれに対する感情的な反応や報復も、まったく意味を成さない。
感情が怪物的に膨れ上がったこの時代を何とかしなければならない。