これはもう3年前の「ヤマカンナイト大阪」で言った通りだが、それはあくまで後から見た結論だ。

2009年に『けいおん!』が始まった時、直感的に、

「ヤバい!」

と、悪寒が走ったのを覚えている。

 

アニメのポストモダン化が始まったのだ。

それは同時に、モダニズムにしがみついていた僕の「死」を意味した。

 

僕の居場所がなくなる。

それは恐怖と言う他なかった。

 

ちょうどまた運悪く、僕はその年実写を監督した。

現場は大変だったがびっくりするくらい楽しく、評判は良く、生まれて初めての賞までもらった。

 

実写に対する手応えと、アニメに戻らなければならない恐怖。

それがなし崩し的に『フラクタル』に至る。

 

あの時の直感は間違いなかった。

しかし自分の会社には京アニ時代からの仲間がいた。

引き返すしかなかった。

 

実はその時既に……だったのだが、詳しくは言わない。

しかし結果論だけ言えば、あの時引き返したのは大失敗だった。

 

 

「ヤマカンナイト大阪」で言った通り、SNSは加速度的にアニメに口出しを始め、自分の先天的な非社会性を忘れたいかのように人畜無害で萌え萌えキュンキュンな「美少女動物園」で現実逃避し、少しでも目を覚まさせようとする刺激には狂暴に牙を剥くようになった。

それだけでなく、自分達の力が強大になったと知るや、今度はアニメをオモチャのように扱い始めた。

自分がイキがるためだけにアニメを利用し、凌辱し、挙句には壊し始めた。

予想していたとは言え、それを遥かに越える惨状に、我が目を疑った。

 

あれから10年。

その行き着いた先は、なんとか「美少女動物園」を逆手に変奏しようと奮闘し成功したにも関わらず追放された者と、ポストモダンに耽溺しておけばどんな不条理でもまかり通ると勘違いした魑魅魍魎どもによる「2期」の、象徴的な地獄絵図だった。

 

僕はその濁流の中でもがき苦しむ一方で、だからこその多くの「表現の課題」を見つけていった。皮肉なことだが。

これを今こそやらなければ、アニメは本当におかしくなる。

やらねば。

手を替え品を替え、訴え続けた。

 

正直10年が限度だと思っていた。

10年経てば何か変わるだろうとも思っていた。

それも甘い読みだったのだろう。

 

この業界はまったく変わっちゃいない。

この状況を最後に変えられるのは「民意」だけだと思ったが、今はSNS運営までが邪魔をして、まったく機能していない。

絶えず後ろから撃たれる、最悪の展開となった。

 

 

不毛であったが、なるべくしてなった10年が終わった。

所詮、僕の手には負えなかったのだろう。

この状況がどんどんつぶさに見えてきて、ほぼ完璧に把握するにまで至ったが故に、この無力感は辛い。

 

 

もういい、諦めよう。

これでおしまい。