立食いそば屋さんの前で話をしていたおジイさんに
 「三原山の登山口まではどの位かかりますか」と聞いたら
 「バスで40分ほどかな。でもこの時間はほとんど出とらんぞ」
 と言った。
 それでバスの時刻表を見に行くと、2時間もの待ち時間があることがわかった。
 
 その時だ、どんよりと曇った空から、雪が混じった冷たい雨が落ちて来た。

 登山口へのバスが出ない、耐えられないほどの空腹、雪の混じった冷たい雨・・・。
 
 「次の東京行き、二等船室1枚ください」 
 気がつくと、チケット販売窓口の前でボクはそんな言葉を呟いていた。

 帰りの二等船室内では、誰かに声をかけられることなく、もちろん話しかけることも無く、畳のある一点を見つめ、じっと座り続けていた。
 頭の中を同じような考えが堂々巡りし、何の回答も得られないまま、時間だけが過ぎていった。
 
 竹芝桟橋に到着したのは午後9時前だったと思う。周囲は真っ暗で、雨が強く降っていた。
 ボクはびしょ濡れになって何かに導かれるように、浜松町駅に向かい、電車に乗った。
 その時、わずか24時間ほど前にも乗った山手線なのに、何故かとても懐かしく感じたのを覚えている。

 家の玄関前に着いたのは午後10時頃だった。
 あの時始めて「家の敷居が高い」という言葉の意味が分かった。

 ドアを開けると父と母と兄が3人並んで、笑っているのか怒っているのかわからないような複雑な顔で、出迎えてくれた。

 茶の間に座ると、3人が同時に
 「何処行ってたんだ!」
 「バカもん心配させんじゃないよ」
 「まあお茶でも飲め」
 とそれぞれが言った。

 そしてその後、しばらくは誰も言葉を発しなかった。

 それから何分位経ったろうか、突然兄が
 「帰って来たって警察に言わなきゃ」と声を出した。
 すると父が
 「ちよっと二人で行って来い」と兄を見て言った。

 警察署へ行くと、<家出人捜索願>の掲示板に、ボクの中学入学の時の写真が貼られていた。その写真を指差し

 「これボクです。帰って来ました」

 と、近くに居たお巡りさんに言ったら、そのお巡りさんは
 「あっ、お帰り」と笑って、階段を上がって行ってしまった。
 それ以来、ボクはお巡りさんを、あまり信用しなくなった。
 
 その後、我が家は異常なほど会話のある明るい家庭になった。但しそれは3日間だけだった。

 4日目の夜には、もう母が「オマエが帰って来なかったあの夜、私も家を出ようと思ったんだ」と真剣に話しかけて来た。

 それから20年、母は毎日のように「別れる」「家を出る」と言い続けたにもかかわらず、結局、我が家からあちらの世界へ旅立ったのだった。


<本日で「家出話」は終了です。明日からはまた、いつものパターンに戻ります。>