近時の国会は、討論を聞いても将来を考えながらの建設的なやりとりは無く、官僚が残業しながら纏めさせられたような責任回避だけの説明が棒読みされているように見えます。必要とあらば同じ空疎な説明が繰り返され、時間が経てば打切って与党ほかの圧倒的多数の力で押切って法案なり決議なりが成立する状況が常態化しています。
極め付きは、半年以上繰り返された政治資金パーティの裏金事件をめぐる、企業献金に関する最高裁判決を引用した首相説明でしょう。本来、時間を割くべき課題ですらないと思われますが。
判決は1970年と1996年の二度下されていて、勘違いでなければ新しい方の1996年には企業献金に否定的な判断が示されています。首相はこれに一切触れることなく、1970年の判決を繰返し引用した訳ですが、選良として国民に正しい方向を説明すべき立場で採る見解でしょうか。
正当性を主張した上で、これまでのパーティ券の購入者を公開する基準20万円超を10万円にすべきだとか散々時間を浪費して、本来、廃止すべきところを、ようやく5万円で押し切ったのでしょう。与党議員からは自民党を守るためには不可欠であるとか、これで自民党の力を示すことができたといった発言まであったようで、国民目線からは何をかいわんやです。
このような国民を愚弄する政治が許されて良いのでしょうか。否、最高裁判決を引用する以前に、立法府として企業献金を廃止する良識や、IT時代ですから政党交付金や個人寄付の流れを1円単位で機械的にデジタル化し、透明にできない範囲は課税の対象にして国民と同様な義務を負うようにする等の良識を発揮して欲しいものです。
何故、政治家(政治屋という呼び方もあるようです。)のための政治が成立つようになったのか、国民の責任も大きいでしょう。それと、本来的には相互に独立しているべき政・官・業のうちの業(界)にも問題があるでしょう。業の代表格である経団連は、衆議院の解散に備えて、早速、与党の政策を高く評価するとした上で、傘下の企業等に自民党への政治献金を呼びかけています。国民目線からは、政策が高く評価できるなら我が国の経済はここまで凋落してはいないだろうと思われ、企業名での献金の正当性とともに何か変です。が、ここではここまでにしましょう。
さて、古くは55年体制と呼ばれた自民党と社会党が支配的であった時代や与野党が多党化した時代が続きましたが、中選挙区制であった影響もあって選挙では各党の候補者は人格や見識を競い合うことが求められた記憶があります。結果、立派な政治家が各党をリードし国政も、妥協点を探りながらまだまだ良識的に運営されていたような気がします。
最近の日々劣化する政治を見るに、選挙に出る候補者に政治家としての能力や資質が無くても選ばれ得る日本では、各党の得票率と獲得議席数が対応しない(小選挙区制が馴染まない)ことが大きな原因であるように思われます。
民主主義から乖離した権力が得られる可能性がある選挙制度の下で、国会のチェック機能が及ばない困った政府が成立する可能性が生まれ、将に「権力は腐敗する。」とか、「権力は暴走する。」となるのでしょう。 三権分立といいながら、これが崩れているのです。
この状態は、既に、二十年以上、続いているのかも知れません。支持率が20%を切った内閣が国会解散も拒否して、先送りできない課題に対応すると居座り続けたり、党内事情で成立した新内閣が、突然、過去にない短期間で衆議院の解散を宣言するなど、巨大与党が行政と立法機能を支配し続けている恐ろしい状況にあります。
何時の頃だったか、どの筋からだったか、「決める政治」が喧伝された記憶があります。国民の方もこれに乗った面もあったかも知れませんが、現在の政治家のための政治、確たる戦略もなく経済対策と言いながら金をばら撒き続け、将来世代に課題や負担を先送りし続ける政治を見るにつけ、国民もしっかりしないと、日々、我が国が崩壊し続けているとしか思えません。
与党は徹底的に反対するかも知れませんが何とか新しい中選挙区制などに戻すことも急いで、人口減少に対応した国会議員の大幅な削減、一票の格差是正を果たし、限られた選良で地域毎の利益誘導でない日本全体の将来図を描きながらの政治に移行させるべきではないでしょうか。別に、小選挙区制のままでも1回の投票で過半数を得る候補者がいない場合には上位二人での決選投票をすることにすれば、有権者の関心も高まって投票率が上がるといった副次的な効果とともに、政治と関係ない分野での人気・知名度だけの候補が当選する可能性も回避されることことが期待できる、といった識者の提案に接したこともあります。
(注)決選投票方式の好例は、過日の自民党の総裁選挙でしょう。9人の候補者が乱立してどうなるかという状況でしたが、1回目の投票では、第一位になった高市氏が獲得した票は約25%でした。第2位の石破氏との決選投票では、僅差でしたが、石破氏が約53%の票を獲得しました。投票権者の支持という面では投票権者の過半の支持が明確であったということでしょう。
野党には政治を任せられないという意見も強いですが、国民の立場からは、何とか巨大与党の誕生を回避した方が、政党間、政治家間での切磋琢磨が避けられなくなり、政治家も政党も成長し、ひいては、政策の質も向上するでしょう。とにかく、国民が監視できる構図が必須です。
地方の声をどう救い上げるかという課題も残っていますが、与党の強権で都道府県の自治権を奪うような法律を乱造、乱用する環境を放置しないで、自治体の主体性や自治体相互間連携機能等も強化・活用して目こぼしの無い施策を進めることが不可欠でしょう。能登半島震災への対応を見ても、県の対応能力を超えた大災害であるにもかかわらず、国は当初から予備費を切り崩しつつ災害対策費を小出しし続けるのみで、今回の災害の地域性や特徴を考慮した、人的支援の強化までを含む(県への)抜本的な体制支援や計画立案支援はなされていません。誰が総合的な司令塔を果たし得るのか、結果的に被災者は半年たっても瓦礫の山を横にライフラインも途絶えがちなままの生活を強いられている恐ろしい状況です。放置してはいけません。
万博の強行が復興に影響することはないとの判断が早々になされましたが、諸事万事が成行き・先送りの、大局的判断が無いままの社会になっているのも国民が巨大与党を成立せしめたことと関連していませんか。
憲法改正論など、日本社会が崩壊しつつある現在の危機からすれば、・・・・・。
それともう一点、女性の社会的地位は一向に高まる気配がありません。さらに、近時、夫婦別姓とか、ジェンダーギャップ、ジェンダーフリーとか、人々の自然な生き方に対する理解や認知が求められていますが、国会レベルでは一向に議論が纏まる気配がありません。
背景にあるのは、与党議員の多くの方が(女性も含めて)、二十年前位に騒がれた日本会議や、集票活動の一環としてその後は統一教会などと関わって、これによる保守的であったり特異であったりする宗教的思考、それと19~20世紀的思考に固まった高齢政治家が跋扈していることなどに影響されていること、などではないでしょうか。それと公明党が与党であることから、政府が金をバラまけば自民党は創価学会の票が得られるような気配も感じられ、政教分離と言いながらも如何なものか、なかなか複雑な構図です。
とにかく、国民はどうすれば自分たちの手に政治を取戻すことができるか、色々なことを考え行動するるのが大切な課題と思われます。
それと、我が国の立法、行政を適切に管理する力が衰えた今一つの原因は、誤った政治主導ではないでしょうか。
過去には官僚が組織的に蓄積した専門的な知識を元に強い権力を行使していた時代が続きました。これを逆手に、政治家が主導せねばならないという動きが活発になってきたと思いますが、時間とともに力を得た与党の政治自体が劣化し、最近は朝令暮改、朝三暮四など、目に余るものがあります。
原因は、日本ではもともと政治家にその道に必要な研鑽を積む組織的風土がないのか、首相や大臣等は当選回数などに基づく序列での持回りになって、世襲制もあって、専門性を踏まえた人材が育っていないことが挙げられます。政治自体もポピュリズム的になったり、論理性や客観性を欠いたものになっている面もありそうです。
政策の客観性を謳うために諮問委員会などを定めて方針を整理する手法が多用されるようになっていますが、委員会には当該案件を所管する大臣等の友達的な業界出身者や専門家が任命されるようで、結論もオールジャパン的な客観性や科学性を欠いたものになりがちではないでしょうか。また、言論の自由にも圧力がかかり、これを保障した活発な意見交換の場も失われつつあるように思われてなりません。
このような影響で、若手の段階で意欲を無くして官僚を退く人も多いようですし、官僚を志願する新卒者の減少にも繋がって、政治体制の見直しとともに官邸主導の遣り方自体を見直さないと、役所の機能の維持・強化という面でも、日本の将来自体が危うい状況に陥っていると思われます。
今一つは、政治の社会で「専門的な知見を有する学者や研究職にある人を敬い、かつ、社会の牽引役の機能を担って貰う。」という文化、風土が失われつつあることです。短絡的に科学者・研究者の鼻面に人参をぶら下げて成果を競わせれば日本の科学や技術が進歩するとして大学や研究機関の財政の効率化を追求し、さらなる問題は、経済界・企業は経費節減のためにポスドク等を使った将来を見据えた新分野開発等の研究開発は国が補助するまで先送りし続けるといった状況が拡大しているように見えます。これが失われた数十年の根底にあるようで、社会や企業に求められるSDGsの本質は何かを問い直しながら、コストカット型でない経営に必要なものが何かを問い直す必要がありそうです。
資源のない我が国ですから、これまでは物づくりが経済の活力の根源でした。これを裏で支えるゆとりある基礎研究等の展開も可能であったように思われます。
時間の経過とともに、とりわけ21世紀に入り、物造りが知的創作活動、IT化を含むより高度化した段階に移行しなければいけなかった訳ですが、我が国では失われた30年の初期の段階からか、かかる研究分野・学問分野を維持するための費用が財政圧縮の一環として、研究成果も短期の費用対効果のような視点から厳しく追及され、かつ、政府の趣向に沿わない研究領域や研究者は排除されるような方向に動き出し、優秀な技術者は随分海外に流出しています。さらに困ったことに、グローバリゼーションの名の下、製造業を人件費の安い海外に移しながら、一方の国内では海外と競争するために非正規雇用を増やすことを唯一の政策手段のようにして、勤労者の給与が上がらないままに現在に至っているようです。
とにかく、教育分野を含めて研究や学問分野への支弁は国を防衛する上での基盤的なものであると考えた、戦略的な整理が必要ではないでしょうか。研究者等の成果は、好奇心ややる気、これを支える心のゆとりがあって齎されるもので、研究者などの大勢が雇用不安を抱えるようでは問題です。
政府は、我が国のかかる領域の根幹にある学術会議自体も行政改革の俎上に載せようとしています。しつこいですが、資源のない日本の発展領域の創出は研究者に委ねる以外の選択肢はない訳で、政治が改革の必要性を感じたなら、その必要性や根拠を明確にした上で、具体的な改革の内容は、あくまでも学術会議に委ねるという対応が適切ではないでしょうか。とにかく、ディジタル赤字への対応まで含めて国として知恵を出し続けるしかない訳ですから。社会科学の分野を含めて、学者、研究者が知恵が出せなくなったら、日本の浮上を諦めるしかなくなるでしょう。
21世紀に入る前から、内外の識者から、「日本は製造業を含めて20世紀とは異質の知的な社会を追究・創出せねばならない。」との指摘が沢山あったように思います。今からでも、中国の経済に吸収されないために、10年先、20年先、50年先と輪郭を描きながらの、今日までの延長戦でない、戦略的な路線を追求、敷き直すべきではないでしょうか。
縷々、書綴りましたが、何が我が国に課せられた課題か、政治を国民の手に取り戻し、国民がステアリングすることが、喫緊の課題ではないでしょうか。