京都・寺町、「死という最後の未来」 | タビノス

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一生は案外短いのかも。できるだけ多くの場所を見たい。

日帰りで京都へ。コロナの第2波が近づいているが休みの関係もありやや思いきる。岐阜羽島からの新幹線はガラガラ。一両の列車に3人位しか乗っていない。昼間のローカル線並みだ。地下鉄で烏丸御池まで。河原町まで歩くが古書店にはタイミングが合わずあまり行けず。アニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』(星野源が独特のナレーション)にこのあたりの飲み屋が出てくるみたい。河原町の丸善(梶井基次郎『檸檬』の舞台)はかなりの規模で毎回驚く。書店というより巨大な美術館の趣。最近関心を持ったつげ義春の写真・原画つきの本があり購入。本の出会いも一期一会。そして大通りから一本裏の寺町通り。アーケードがあり日差しから逃れられ楽に感じる。喫茶店、靴、和風雑貨、仏具など独特な店が並ぶ。妄想もかきたてられる。この雑多な感じがよい。
 
(日曜午前はまだ人通りも少ない)
 
読書記録
 

「死という最後の未来」

ほぼ同年代の石原慎太郎と曽野綾子が死について話し合う。二人は全く別の考えであるが、互いを尊重し合いながらの対談は同士のようにも思え心地よく映る。

石原慎太郎
自分を「体で生きてきた」と表現。学生時代に「太陽の季節」での華々しい文壇デビュー時はまさにエネルギーの塊。70歳を過ぎた都知事時代もダイビングをこなし、不死身の印象すらあった。そんな人でも確実に年をとるのだ。数年前に脳梗塞を患い字が全く出てこないことも。作家にはきついだろう。「混乱と狼狽をおぼえた」そうで率直に心情を述べている。昨年ヨットを手放したときは本当にショックだったそうで、衰えを認める難しさを教えてくれる。それでも日々の散歩とスクワットをできる範囲でやっているそうで、限界まで挑戦する意気込みはさすがである。

曽野綾子
この人は幼少時からキリスト教。幼いころから死について考える「死学」を提唱し、それがよりよく生きることにつながると考えている。
「抗(あらが)わない」ことも繰り返し述べている。無理しても仕方ない。現実を受け入れるべきだと。確かにそうかもしれない。「与える幸福」についても述べている。しょせん自分のためだけだと幸福感に限度があるとも。これは身につまされる。(高齢者でも需要のある)角膜献体の例が出ている。
50歳を過ぎてサハラ砂漠を縦断した話も。死とは「永遠の前の一瞬」とも。動けるうちに動いておかねば。
大先輩(と勝手に思ってます。)に勇気とアドバイスをもらった気分。読書に感謝。