当たるも八卦、当たらぬも八卦
現代の人間社会において思案投首な古い常識が、良くも悪くも今も残っている。
因みに、今世の人間社会においての年数の数え方・紀年法も国や地域によってまちまちであったりする。
日本の紀元元年は神武天皇即位の時とされるし、西洋ではキリスト降誕の年を元年とし、それよりも前は紀元前(B.C.₌before Christ)、それ以降を紀元後(A.D.主の年Anno Dominiの略・西暦)とされ、その数えも今となっては正確ではないとされている。
そのような曖昧な今世の歴史に受け継がれている、例えば「易経」。
四書五経と呼ばれる儒教の経典の一つで『易』または『周易』ともいう古代中国の占いの書物であり、その原型がまとまったのは、紀元前八世紀ごろと言われる。
この「当たるも八卦、当たらぬも八卦」が未だに現代でも使われ続けられていたりする。
また、その中にもある北南東西の“方位”に坎離震兌の八卦、子午卯酉の十二支、冬夏春秋の季節、玄武・朱雀・青竜・白虎の四神、多聞天・増長天・持国天・広目天の四天王、黒・赤・青(緑)・白の四色などが、それぞれの意味付けがなされ、その時代の政治や軍略、庶民の生活などに使われてきている。
他にも干支や星座の意味合いが残っている。
この人間の曖昧な技や知識や雑学の域がまぜこぜになっているものにすがる前に、人間大事なことは無いのか。
古い師や占い、教えなどは、その時代背景を持って、当時は絶大な救いとなっていることもあったのであろうが、時代の変遷や社会や人間の在り様によって、今やもっとも大切なことが何かを見直すことも必要なのではないか。
例えば“方位”にしても、どこを何を基点とするかで変わってしまうものを充てにするのはどうかと熟考してみるといい。
自分基点なのか、どこかの神社が基点なのか、それとも北極?南極?
地球、宇宙全体を主体とするのか、こっちの水は甘くてそっちの水は辛い、あっちは縁起が良くないから行かない方がいいなど、そのことに本当に良い悪いの根拠があるのか。
運が良かったり、悪かったり、正しい、間違いの元は、己の心掛け一つなのではないのか。
原因は自分自身にあるという感性を掴めていないから、他力本願、古いものまで頼りたくなるのではないのか。
良心が良いと感じたものを、聞いた見たという段階で終始し、実行・実践に繋がっていないから答えが出ないからなのではないのか。
この時代、もはや唯物ではなく“心”が大事なことは皆分かっているものの、未だに“真の心”の世界が解かれていないものにすがり、片翼飛行の堂々巡りになっているから突破出来ないでいることを推して知るべし。
そのことを肝に銘じ、自分に向き合い、心の在り様を探究し、真の自立を目指します。
有難う御座います。