「スケジューリング」というと、たいていは時間を思い浮かべる。
時間割とか、時刻表、手帳に書き込む予定、そういう類のもの。

では、そのスケジューリングで、予定が消化できた?

できなかったこともあると思う。

なぜか?

それは、もしかして、お金のスケジューリングが抜け落ちていたせいかもしれない。

つまり、「予算」ってこと。

そんな話を、メルマガ「カカトコリ」で読んだ。


俺にとって、スケジューリング、というと、まず時間のことしか思い浮かばない。

なので、

何を投入するか?

という質問に置き換えると良いかもしれない。

ま、そんなまどろっこしい言い方をしなくても、

時間とお金と人

って言えば良いんだろね。
スポーツで考えてみる。

なんのために練習するのか?

上手になりたい、満足できる結果を残したい、もてたい、等々。

では、練習とは何か?

技術・スキルの獲得・・・

それはどういう過程を経るのか?



俺が思うには、練習というのは、今までとは違う身体の使い方の
獲得だ。

でも、それも、もしかしたら獲得というより、解放と言うほうが
近いかもしれない。

人には誰でも、それまで生きてきた中で獲得した身体の使い方というものが
あるはずだ。
使い方の癖と言えるかもしれない。

何度繰り返しても、イメージと違う結果に、それも同じ結果になってしまう場合、
癖と言って良いだろう。


逆に考えてみる。

新しい身体の使い方を獲得する、と捉えるのではなく、今現在の身体の使い方から
解放される、と考える。

例えば、真っ直ぐを目指しているのに右寄りになる、という場合、
真っ直ぐを狙うのではなく、まず、右寄りになってしまう身体の使い方を
変えてしまう。

左寄りへ。

それも、意識せず左へできるところまで。

そうして、今までの身体の使い方から解放されて初めて、真っ直ぐを狙う。


はて、こういうの、実際にはどうなんだろう?
現実的なんだろうか?

日経産業新聞から・・・



レクサスの販売台数が伸びていないらしい。


社内目標の半分。


それでも、


「レクサスは失敗しない。

成功したと言われるまで徹底的にやるから」


とは専務の言葉。


まさか世界のトヨタの役員が、こんなベタベタな成功哲学じみた

発言をするとは思わなかった。


でも、成功しちゃうんだろな。

唐突に3月になってしまった今日、ふと思いました。

2月はなんで28日までなんだ?

そう思って、ネットで調べてみました。

ありました。
やっぱり、同じことに引っ掛かる人はいるものです。


なんでも、今使っている暦は、古代ローマで作られたものを元に
しているとのこと。

当初、農作業の必要性から、今の3月から12月までの暦が作られ、
その後、空白となっていた1月と2月分の暦が作られ、最後となった
2月で端数を調整した。

そして、時代は下り、8月生まれの皇帝が、自分の生まれ月が30日しかないのは
けしからん、ということで、2月から1日取ってきた。


そんな事情みたいです。

一人の男の不満で今の暦があると思うと、不思議な感じもします。
でも、彼のおかげで、夏休みが一日長い。

しかし、社会人にはあまり関係ないです。。。

久しぶりに嫁さんと二人でお出かけ。

映画を見ました。


有頂天ホテル


予備知識といえば、出演者と胡散臭げなポスターくらい。

でも、すごくおもしろかった!


いろんなエピソードが一点に収束されていくような構成、

映像の中の細かい部分へのこだわり、

おもしろいだけじゃなくてちょっとした哀しさを感じさせるところ、等々。


ただ、試写会(?)で最も観客が沸いたという西田敏行のアドリブ、

それが何だったのかわからなかったのはちょっと残念でした。


ともあれ、楽しい作品です。


かなりオススメ

なぜ投資をするか?


俺にとっては、


お金のことで悩まなくて良い生活を実現するため


です。


何が起こるかわからないのが人生、


ですが、予測できることのほうが多い。


だから、


いつ、いくら必要か?


をスケジューリングします。


どんなことが待っているかわからない、


それも人生。


やりたいことがある、その目標に向けて準備する、


それも人生、そう思います。

ちょっと遅れがちなネタ。


荒川選手の金メダルもあり、ここ最近よく耳にした「イナバウアー」という言葉。


だいたいは、

”上体を大きく反らせた”イナバウアー

という表現だったように思う。


しかし、多くの人は既に知っていることと思うが、

”上体を大きく反らせた”

というのは、「イナバウアー」の説明ではない。


「イナバウアー」とは、それ自体が足の技の一つ。


たぶんポイントは、


スケートのブレードが平行で、横に滑る


ということだと思う。



当然のことだが、同じことを聞いても、人によってその理解は違う。

というより、理解しない人のほうが多いかな?

理解する必要のないことも多いし。


ともあれ、わかりやい表現は、時にあやしい、そう思う。

金融広告もそうかも?

情報、ってやつは、


なければないで不安になる、


あればあったで憂鬱にさせる、


そんな気がします。

少し前の日経ビジネスに、稲盛和夫氏の連載があった。
確かその連載だったと憶えているが、托鉢についてこんなことが書かれていた。


托鉢とは、僧自らが施しを受ける「乞食(こつじき)」の身になることで、
人様からの恵みによって、他によって生かされている己というものを知ること。
また、一方で、他人に何かを分け与えるということの喜びを世の人々に知ってもらうこと。
お布施とは「喜捨」であり、そういう意味がこめられている。
こんな感じだった。
こんなことを思った。
「与える」とは、その与えたものが自分にあると宣言することだ。
自分に足りないと思うものがあれば、それらしきもので構わない、それを誰かに与えれば良いのかもしれない。
うん、何もしないよりは良いと思うよ。

評価には基準が必要であることは言うまでもない。
さらに言えば、適切な基準でないといけない。

新聞でこんな記事を読んだ。
新しい軽自動車を開発するときの話だ。


エンジンの評価基準を、従来は200メートルに到達する時間で見ていたが、
新型車では、あえて30メートルで評価した。
軽自動車に求められるのは、高速道路でのスムーズな追越ではなく、
交差点の停止状態からの右折などでの出足の良さ。


評価の基準は、替えて良い。

何も、今までの基準に縛られることはない。

適切なものに替えれば良いのだ。