登城日 2010年 4月10日(土)晴
難易度 ☆
場所 埼玉県北本市石戸宿6丁目
石戸蒲桜の近くに城址があるのは知っていたのですが、今日は行かないで帰ろうと決めていました。
しかし、北本駅にあった看板。

すぐ近くに石戸城と書いてありました。
やっぱり寄ってしまった…
石戸蒲桜から北西に約1km行ったところにあります。
石戸城までは、北本市自然遊歩道になっています。

案内図。

桜の下を進んで行きます。
かつて、こんな城めぐりがあっただろうか?
ベストシーズンでした。

沼に架かる木橋。

大きな沼が広がっていました。

やがて沼にかかる土橋が見えてきました。

東側から沼の西側にある石戸城への唯一の道です。

説明板

石戸城は、室町時代長禄年間(1457~60)ころ、岩付・松山・川越の各城との連絡のために築かれたものと伝えられている。
扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城にはじまり、永禄6年(1563)松山攻めの時には、上杉謙信が石戸まで進出してくるなど、いくたびかの変遷をみたという。
謙信の松山攻めに先立つ永禄5年(1562)北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守とのあいだに激しい攻防戦を演じたことが、「関八州古戦録」にみえている。
毛利氏の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き一気に攻め上って勝利したという伝承がある。
この土橋が現在「一夜堤」と呼ばれている。
「一夜堤」は、石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ、長さ45m、幅5mほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。
平成元年3月1日 北本市
一夜堤から見た石戸城。

一夜堤を振り返る。

大きな沼ですね。
かなりの要害だと感じました。
それだけに、一夜堤の重要性が認識できます。

沼を見ると小さな魚が泳いでいました。

メダカだそうです。
最近見かけたことが無かったので、懐かしく思いました。

先へ進みます。

一夜堤をまた振り返って見る。

左側は石戸城の切岸。

よじ登ってみたかったのですが、私有地につき立入禁止でした。

それでも侵入すると、重い刑が科せられます。

台地の北端まで来ると、桜堤(城ヶ谷堤)へ登る道と南へ登っていく道に分かれます。
南へ登っていく道。
どうやら、空堀跡であり右側が主郭のようです。

東側(一夜堤側)にも土塁があるように見えるのですが、草茫々かつ私有地につき良く確認出来ませんでした。

どんどん進みます。

ここなんか高い土塁のようにも見えるし、郭の北西隅にも見えるし、何でも無いようにも見えるし。

空堀跡を振り返る。
西側に主郭があり、今は民家の敷地となっている。

怖い犬が見張っていて容易に近づけない。

民家の東側、先ほど進んできた道の西側には櫓台のようなものが見えるんだけどなぁ~

主郭の南へ進む。
窪地が見えました。

大きな堀跡に見える。

堀跡と今来た道を見る。

西側はちょっと南へずれて堀跡が見られた。

ということは、ここに台地の南側への食い違い虎口があったのかもしれません。
一夜堤が無ければ、ここが石戸城への唯一の侵入口だったのかも。

虎口?から石戸城を見る。
堀跡の横には大きなモチの木が生えています。

この通りは桜堤通りと云います。

さらに北へ進む。

このあたりは主郭が道路によって分断されたようだ。

西側にはトイレがあり登ることが出来た。

トイレから今来た道を振り返る。
主郭西側から南を見ています。

主郭の様子。
草茫々で良く解らないし、若干窪んでいる所があるようにも見えましたが、ウロウロしていたら、付近の桜堤の監視員の方に不審な目で見られてしまったので退散しました。

道路を挟んだ主郭東側。

主郭の西側には荒川が流れています。
下りてみます。

腰郭だったりして。

石戸城跡の西側は天下下公園となっています。
天下下公園から見上げる。
結構な高台に石戸城はあります。

東の沼地から攻め上るのと同様、西から攻め上るのも難しかったでしょう。

北側にある桜堤(城ヶ谷堤)を見る。
今日は本当に桜がきれいでした。

石戸城の北にある桜堤(城ヶ谷堤)は、頂いたパンフレットによると、江戸時代に付近の田畑を水害から守るために築かれ、戦後地元の人たちがソメイヨシノを60本植えたと書かれていました。

北端部分を見る。
ということは、今は北の台地とも地続きになっていますが、石戸城のあったころはこの堤は無いので、お決まりの舌状台地の先端に築かれた城だったのですね。
そして、沼地は荒川の流れが食い込んだところだったのでしょう。

と、勝手に納得して帰りました。
せめて城址碑の一つでもあれば良かったのですが。
良く解らない城でした。