登城日 1回目 1995年頃
2回目 2011年 8月 7日(日)晴
難易度 ☆
場所 大阪府羽曳野市古市5丁目
安閑天皇陵を本丸とした河内守護畠山氏の居城です。
【高屋城の概要】
応永年間、管領兼河内守護の畠山基国は、この地に高屋城を築城し、丘陵の最高所にある安閑天皇陵古墳を本丸に利用しました。
古墳の回りの水堀を本丸の堀として利用し、二の丸から三の丸、四の丸まであった高屋城は壮大な規模を誇りました。
しかし、近年、周辺の住宅化が進み、城の遺構は古墳以外には何も残っていません。
(藤井寺市観光協会HPより)
最寄駅は近鉄南大阪線古市駅。
古市駅は長野線の分岐駅でもあります。

駅から南を見る。
こんもりとした森が安閑天皇陵。
高屋城の本丸跡でもあります。

昭和23年(1948)の航空地図。
南大阪線は駅を出て東へ急カーブ。
長野線は南へ直進。
近鉄の線路に挟まれるように高屋城がはっきりと見えます。
国道170号線が高屋城の西側を貫通しています。

今は宅地化で遺構がほぼ消滅してしまったので縄張図をもとに歩いて行きます。

国道170号線を南下。
近鉄長野線跨線橋から東を見る。
この辺りが本丸北側付近。

跨線橋を越えた所に安閑天皇陵がある。
ここが高屋城の本丸だった。

恐れ多くも天皇陵の上に陣取るとは。
当然、現在は立ち入り禁止。

天皇陵は水堀で囲まれているので丁度良かったのだろう。
付近には応神陵や白鳥陵などがあるが、この古墳は台地の先端に位置しているのも選ばれた理由かな。

訪城時期が悪く木が繁っていて古墳の様子が見えなかった。
(よって、本丸の様子が見えなかった。)

国道170号線をさらに南下。

城山北交差点付近が本丸と二の丸の境だろう。
この道は堀跡を利用したのかも。

登ってみる。
右手に姥不動堂が鎮座。

姥不動堂縁起。

境内に城址碑がある。

また説明板も。
ここが二の丸の中心とのこと。
(実際には中心より北側だと思われる。)

境内裏の東高野街道を南下するとまた国道170号線と合流。
合流したところが城山交差点。
二の丸の南端付近かな。

城山交差点から東を見る。
二の丸の南側付近で、かつては道路の南側付近に堀と土塁があった。

今は宅地化で消滅してしまったが、堀跡を埋め立てた痕跡を駐車場で僅かに辿れる。

すぎわけ歯科奥の駐車場がかつての堀と形がピッタリ。
この左手に高い土塁があったのだろう。

すぎわけ歯科からまた東高野街道を進むと高屋神社がある。
この辺りは三の丸。

説明板。

東高野街道を南下すると台地を少しづつ下って行き羽曳野城山住宅に到達。

東高野街道を振り返る。
この辺りが高屋城の南端。

団地の東側。
馬場があったようだ。

今度は高屋城の東側へ行ってみる。

台地の比高差は家々の2階以上あった。

羽曳野城山郵便局から南を見る。
この辺りが二の丸の中心で、道路の向こうが若干窪んでいた。
その辺りに二の丸から三の丸への虎口があった。

郵便局から東へ行き突き当りを左折。
二差路を下って行く。
この辺りに櫓台があった。

坂を下った所に古市南小学校があり、校門脇に説明板が建っている。

説明板。
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坂を下ってもまだ付近より高い。

城外から見る。

城外にある古市南小学校裏。

二の丸の中心にある羽曳野城山郵便局へ戻る。

郵便局の北に、安閑天皇の皇后だった春日山田皇女の古市高屋陵がある。

参道は国道170号線から延びている。

住宅街を抜け東高野街道に戻る。

この辺りは二の丸の北端。

ここに「→高屋城二の丸跡0.1km」の標記。

戻って探してみたが見当らなかった。
かつて二の丸公園があり説明板が建っていたが、その公園も宅地化で消滅してしまったようだ。
(wikipedia掲載のとおり)

標記の所に戻って本丸を見る。

古墳の説明板らしいが、すっかり掠れて見えなくなっていた。

本丸の水堀を見る。
南側。

東側。

東高野街道を北へ、不動坂を下る。

説明板。
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絵図を拡大。
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不動堂。

草茫々の不動堂裏の土塁。
(wikipedia記載の写真の方が解かりやすい。)

不動坂東側の土塁。

城外から見る。

土塁脇を搦手口へ進む。

搦手口。

天正3年(1575)織田信長による河内攻めの際、ここにあった不動坂門が破られ落城、その後高屋城は廃城となった。