登城日 2010年 6月17日(木)晴
難易度 ☆
場所 群馬県前橋市大手町1-1-1
群馬大橋から見た群馬県庁。

群馬県庁の聳える場所に前橋(厩橋)城があった。
【前橋(厩橋)城の歴史】
≪室町時代・安土桃山時代・江戸時代前期≫
前橋はその旧名を「厩橋(まやはし)」といった。
「厩橋」の名は、現在利根川の流れているあたりに車川と称する流れがあり、そこにかかっていた橋を「駅家(うまや)の橋」と呼んだことから、自然に地名になったと伝えられている。
このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。
伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。
当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。
永禄3年(1560)、上杉景虎が厩橋城を攻め取る。
以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。
天正10年(1582)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると織田方の滝川一益の居城となった。
同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は小田原北条氏の元に入る。
天正18年(1590)小田原の役に際して豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康が家臣平岩親吉を厩橋城に置き3万3千石を与える。
慶長6年(1601)の関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。
重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。
17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。
しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、18世紀の初頭には本丸の移転を余儀なくされている。
≪ 江戸時代後期≫
寛延2年(1749)播磨国姫路藩に転出した酒井氏と入れ替わり姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入る。
以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。
明和4年(1767)、利根川の浸食を受けた本丸が崩壊の危機に曝されたが、松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験して借財が多く、城を修築するだけの力は既に無かった。
松平氏は前橋城を放棄し、武蔵国川越藩に移封される。
前橋藩は廃藩となり、川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和6年(1769)に破却された。
領主が去り荒廃した前橋領において、領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり松平家に帰城が請願された。
天保年間(1830~1843)に郡代奉行安井政章(安井与左衛門)らにより利根川は改修され、利根川の勢いが西方に反れた事で城郭崩壊の危険度は低くなった。
横浜開港後、特産の生糸の輸出により前橋領の財力が回復すると、文久3年(1863)12月、時の川越藩主松平直克は遂に幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。
領民による出資や労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応3年(1867)3月、直克が入城し前橋藩が再興した。
≪近現代≫
前橋城再建から半年の後、大政奉還により江戸幕府は終焉、明治4年(1871)の廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれたが、他の建屋は取り壊された。
府県統合により群馬県が成立した後、県都が当初の高崎から前橋に移され、本丸御殿は昭和3年に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われた。
今日、本丸跡地には平成11年(1999)に竣工した地上33階・地下4階の鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎が置かれている。
また、二の丸跡地には前橋市役所が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっている。
三の丸外郭の地が明治38年に整備され前橋公園となった。
現在の城址は市街化が進み、城の面影は少ない。
(wikipediaより抜粋)
再築後の前橋城縄張図。
再築前の前橋(厩橋)城の遺構は解らなかったです。
県庁の西にある虎姫観音堂。
前橋城主の寵愛を受けた虎姫は他の奥女中嫉まれ利根川に沈められてしまったと云う。
それ以後、利根川が氾濫を繰り返し前橋城の本丸を削り取ってしまった。
虎姫の怨念に違いないと考えた人々は、虎姫の霊をお虎稲荷大明神として祭った。
それが虎姫観音堂の由来と云う。

観音堂の建つ辺りに再築前の本丸があり、三層の天守閣が建っていた。

虎姫観音堂から県庁を見ると、高い土塁が見える。
この土塁は再築後の前橋城本丸を囲っていた土塁です。

何も残っていないと思っていたのですが、なかなか立派な高い土塁にビックリしました。

土塁は県庁の北側をぐるっと廻っています。

高浜門付近。

北東隅の砲台跡付近には土塁の登り口がある。

登ると前橋城址の碑が建っている。

土塁の上を見る。

土塁は県庁の入口付近で切れてしまいます。

県庁の北にある前橋公園。

ここにも土塁が残存しています。

利根川側から見る。
ここでタヌキを見かけました。

土塁上部。

前橋公園の北側には空堀があった。
今は遊園地みたいな施設があります。

良く見ると、端に石垣らしきものが見えました。

空堀よりさらに北側を流れる風呂川。

ここにも低いですが、土塁が残存しています。

柳原門付近。

ここから南に土手曲輪の堀跡に沿って道がくねくねしています。

さらに南へ行くと車橋門が残存しています。

説明板。
門跡はスペースの関係から狭められて保存してあります。

車橋門跡の碑と説明板。

日没を迎えてしまったので、ここで退散。
さようなら前橋城。

もうちょっと時間をかければ、何か発見出来たかもしれませんが、群馬総社駅からここまで辿り着くまで、延べ2日間かかってしまった…
見所たくさんの前橋でした。